残りの教会

第一部 教会に対する神の愛

第一章 神の最高の関心の対象

1892年12月23日 オーストラリア・メルボルンにて

愛する世界総会の兄弟方、私はあなた方に次のことを証言します。キリストの教会は、たとえ弱く欠陥があっても、主がご自身の最高の関心をよせられる地上の唯一の対象です。主は、全世界の人々に、主に来て、救われるように招待を出される一方、み使たちには、主に来て、悔い改めるどの魂にも天の助けを与えるように命じ、また、ご自身は親しく、聖霊によって教会の真中に来ておられます。「主よ、あなたがもし、もろもろの不義に、目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。わたしは主を待ち望みます。わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。わが魂は、夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます。」「イスラエルよ 主によって望みをいだけ、主には、いつくしみがあり、また豊かなあがないがあるからです。主はイスラエルを、そのもろもろの不義からあがなわれます。」
全教会と牧師方よ。これを私たちの言葉としましょう。民として、個人として、私たちに、清い愛と大きな慈悲を注いでくださる神に、心からお答えいたしましょう。「イスラエルよ、今からとこしえに、主によって望みをいだけ。」「主の家に立つ者、われらの神の家の大庭に立つ者よ、ほめたたえよ。主は恵みふかい。主をほめたたえよ。主は情ぶかい、そのみ名をほめ歌え。わたしは主の大いなることと、われらの主のすべての神にまさることとを知っている。」兄弟姉妹方よ、主はひとつの民、ひとつの選ばれた民を持っておられ、主の教会を、ご自身のもの、罪におち、神にそむいた世界で、主ご自身の砦となさっていることを考えなさい。そして主は、その中にいかなる権威も、またいかなる律法も承認されてはならず、ただ主ご自身の権威と律法だけがあるように意図されました。
サタンは大きな同盟即ち彼の教会を持っています。その会員は罪の子たちであるので、キリストは彼らをサタンの会堂と呼んでおられます。サタンの会堂の会員は、たえず天の律法を廃棄しようと働き、善と悪との区別を混乱させようとしてきました。サタンは大きな力をもって、不従順の子たちの中で、また、彼らを通して、謀叛と変節を真理と忠誠であるかのようにあがめさせようとしています。そして、この時代に、彼の悪魔的感化力は、天で始まった神への大反逆を遂行させようとして、人間の器に働きかけているのです。

明白で、決定的な諸特徴

この時代に、教会はその美しい衣 ―「私たちの義なるキリスト」を着るべきです。神の戒めとイエスを信じる信仰を高くかかげて、それらを回復することが、教会の世界に示す明白な、決定的な特徴です。聖潔の美は、神の律法に背いた人々の不忠節な、みにくさや、くらさとは反対に、その本来の輝きをもって現われます。こうして私たちは神を認め、また天と地上の領域をあまねく支配する神の政府の基礎である主の律法を知るのです。主の権威は世界に対して、はっきりと、わかりやすくされていなければなりません。エホバの律法と衝突するどんな律法も承認されてはなりません。もし、神のご計画が無視されて、世が、私たちの決定や決議に影響を及ぼすことがあるならば、神の目的は敗北させられるのです。どんなもっともらしい口実であろうと、教会がここで動揺するならば、天の書に、教会は最も神聖な真理に反し、キリストの王国を裏切ったと記されるのです。教会は堅く決定的に自らの原則を全宇宙と世界の諸国の前に掲げなければなりません。神の律法の神聖さと誉れを維持する堅固な忠誠心は、この世からさえも認められ、賞賛されるでしょう。多くの人々は、彼らが見たよい行為によって、天にいます私たちの父を崇めるようになるでしょう。忠節で、真実な人は地上の君主からでなく、天から信任を受けます。すべての人は、選ばれた忠実なキリストの弟子たちを知るでしょう。そして、神をあがめた者、神からとうとばれたものとして冠と栄えをいただき、永遠の価値ある栄光の所有を許される時、世人は彼らを承認するでしょう。
主は、ご自身の教会に、能力と祝福を与えられました。それで、彼らは世界に主ご自身のうるわしい姿を示し、また教会は主の中に完成し、他の永遠の世界にさえも彼らには地上の法律よりもはるかに高い律法のあることを絶えず現わすものとなるでしょう。主の教会は天のものにかたどって建てられた宮となるべきです。天使の建築士が天から主の黄金の量りざおを持ってきて、天の尺度によって、ひとつひとつの石を切って四角にしました。そして、天の紋章として光るように磨かれました。それで、どの方向にも、義の太陽の輝く、澄んだ光線を輝かせます。教会は天からのマナで養われ、主の恵みの保護のもとに守られます。光と義の完全なよろいを身につけて教会はその最後の戦いにでていきます。かすや無価値な材料は焼きつくされます。そして真理のもつ感化力は、真理の清め高貴にする性質を世界に証明します。

天の実験

主イエスは、人の心に、主の慈愛と豊かな恵みとを示すことによって実験しておられます。主は人の心を驚くばかりに造り変えられるので、サタンはどんなに勝利を自慢しても、また神と神の統治の律法に対して、悪の軍勢をどんなによせ集めても、造り変えられた人たちをサタンの詭弁や欺瞞では攻め落とすことのできない砦として見ているだけです。彼らはサタンにとって理解のできない神秘です。人間と協力するように任命された勢力である神の使いたちセラピムやケルビムは、かつては怒りの子であつた堕落した人間が、キリストの訓練によって、神に型どって品性を形づくり、神の息子、娘になり、天与の職務と喜びにおいて重要な役割を果たすのを驚きと喜びをもって見つめています。
キリストは贖われて、買いもどされた主の所有から大きな栄光の結果を受けるために充分な能力を教会に与えられました。キリストの義を与えられている教会は、主のあわれみと愛と恵みの富を保管する主の宝庫であり、そこに満ちているものを完全に徹底的に現わすべきものです。私たちに対する天父の愛は、独り子の主に対する愛と同様に大きく、またキリストと天父が永遠にひとつであられるように、私たちも主がおられるところにいられるようにとのキリストのとりなしの祈りにあらわされた宣言は、天の万軍にとっては、驚きであり、また大きなよろこびです。あふれるばかりに豊かな聖霊の賜物は、よみの勢力も打ち勝つことのできない火の壁となって教会をとりまくのです。キリストはけがれのない純潔としみのない完全さの中にあるご自分の民を、ご自分の苦難と愛の報いとして、またご自分の栄光をまし加えるものとしてごらんになります。キリストこそ、そこからすべての栄光が輝き出ている大中心です。「小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである」(黙示録19章9節)

1893年世界総会公報408、409ページ、
牧師へのあかし15〜19ページ再録


第二章 神の財産である教会

教会は神の財産です。そして神は常に教会が世の中に立っており、サタンの誘惑の的になっていることを覚えておられます。キリストはその屈辱の日々を決してお忘れになることはありません。主は屈辱の場面を通過されたのちも、その人性を少しも失われることはありませんでした。主は同じくやさしさ、憐れみに満ちた愛を持たれて、人間の悲しみに心を動かされます。主はいつも悲しみの人であられたし、(イザヤ書53章3節)悲しみを知っておられました。主は主を代表して踏みにじられた律法を回復しようと努力する人々を忘れられません。主を憎んだ世が彼らを憎むことを知っておられます。イエス・キリストは天に帰られても、ご自身の無限の愛の心を主を信じる人々に生きた鎖で、しっかりとその心に結びつけておられます。主は主が私たちの代表であり、私たちの性格を持っておられることを忘れられません。
イエスは救霊の大きな働きで主に協力しようとする偉大な野心を持った地上の主の真の教会をご覧になります。主は悔い改めて熱心に祈る彼らの祈りを聞かれます。全能者はキリストの体である教会員のだれであっても、試みられ、誘われている人の救いを求める彼らの嘆願を拒むことができません。「わたしたちは、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」イエスはいまも私たちの仲保のために生きておられます。真の信徒で贖罪者から、恵みを受けないというようなことがあるでしょうか。問もなく最も激しい闘争に入ろうとする教会は地上で神が最も大切にされるものです。
悪者の同盟は、よみの力によってかき立てられます。サタンはできる限りの非難を彼の悪魔的策略や偽りに惑わされたり欺かれたりしない選ばれた人々の上に投げかけます。しかし、「イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、導き手とし救い主として」私たちの代表として、また頭としてあげられたキリストがそのみ心を閉じ、み手をさしのべることをしないで、み約束を破られるということがあるでしょうか。決して、決してそのようなことはありません。

教会とひとつになられる

神は教会、選ばれた民を持っておられます。すべての人が、私が示されたように、キリストがいかにご自身をその民とひとつにされるかを知ることができたらよいと思います。バビロンと同様、教会を攻撃する人々は、このような使信を聞きたくないでしょう。神は主と共労する人々を持ち、彼らは主の栄光をみつめて、真直ぐに前進してきました。天におられる私たちの代表者の祈りを聞いてごらんなさい。「父よ、あなたが私に賜わった人々が、わたしの所に一緒にいて、私に賜わった栄光を、彼らに見させて下さい」と主は祈られます。頭であられるお方は、ご自身の教会がご自身と共にいることをどれほど望まれていることでしょう。教会は、主の苦しみと屈辱を共にすることによって主との交わりを持ち、主は教会が主と共にいて主の栄光にあずかることを最高の喜びとされるのです。キリストはご自身の教会をお持ちになる権利を主張されます。「あなたが私に賜わった人々がわたしの所に一緒にいるようにして下さい」彼らを主と一緒にいるようにすることは契約的約束であり、天父の了承にもとづくものです。主は主が完成された主の民の贖罪を恵みのみ座にうやうやしく提出されます。私たちの身代わりであり保証人であられる方のまわりには約束の虹がかかっていて、愛の嘆願が主のみ口から出されています。「父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしの所に一緒にいる…わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい」私たちは着飾った王を見、教会は栄光を見るでしょう。今は、私たちもダビデのように、「彼らはあなたのおきてを破りました。今は主のはたらかれる時です」と祈るべきです。神の律法への人間の不従順は前代未聞であり、不遜の極に達しています。人間の不従順は、もはや神の寛容と愛の極限に近づきつつあります。そして、神は確かにそれを阻止されるでしょう。主は確実に主の誉れを擁護され、はびこった悪を制止されるでしょう。神の戒めを守る民は、はびこった悪に押し流されるでしょうか。この世が神の律法を軽視するからといって、彼らも、天と地の支配の基である神の律法を軽く考えるでしょうか。いいえ、人々が軽視とさげすみを投げかければかけるほど、主の教会にとって神の律法は尊い、聖なる、畏るべきものとなります。ダビデのように、「彼らはあなたのおきてを破りました。それゆえ、わたしは金よりも、純金よりもまさってあなたの戒めを愛します。それゆえ、わたしは、あなたのもろもろのさとしにしたがって、正しき道に歩み、すべての偽りの道を憎みます」と彼らは言います。
今は、戦いの教会は、勝利の教会ではありません。しかし、神ご自身の教会を愛されます。そして、預言者を通して描かれているように、神の民に黒い汚れた衣を着せて、彼らを滅ぼすのが当然であると主張するサタンを、神はどれほどおさえ、抑止されていることでしょう。かつて神のみ使たちは、敵の攻撃から彼らを保護しました。預言者は言っています。
「時に主の大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。主はサタンに言われた、『サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか』ヨシュアは汚れた衣を着て、み使の前に立っていたが、み使は自分の前に立っている者どもに言った、『彼の汚れた衣を脱がせなさい。』またヨシュアに向かって言った、
『見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう。』わたしは言った、
『清い帽子を頭にかぶらせなさい。』そこで清い帽子を頭にかぶらせ、衣を彼に着せた。主の使はかたわらに立っていた。
主の使は、ヨシュアを戒めて言った、『万軍の主は、こう仰せられる、あなたがもし、わたしの道に歩み、わたしの務めを守るならば、わたしの家をつかさどり、わたしの庭を守ることができる。わたしはまた、ここに立っている者どもの中に行き来することを得させる。』」
ある人々が神からの使命を持っていると主張しつつ立ち上がりながら、しかもこの世の暗黒の主権や権力及び支配に向かって戦う代わりに、中空方陣を作って、その武器を内側に向け戦っている教会に向かってくるとき、その人々に気をつけなさい。彼らは神からの信任状を受けてはいません。神はそのような働きの義務を委ねてはおられません。彼らはラオデキヤの使命によって、神が回復しようとされるものをこわします。主は滅ぼすためではなく、いやすために傷つけられます。主は教会を失望させ、落胆させるような使命をだれにもお与えになっていません。主は、非難し、誼責し、懲らしめられますが、それは最終的には回復させ、受け入れるためです。私は多くの人の心が柔和で従順になり、また多くの人が謙遜な告白をなし、救い主を閉めだすようなつまらぬ考えを心の扉から払い捨てたという報告を世界総会から聞いて、心から喜びました。多くの人がイエスを客として心に迎えたことを知って喜びにたえません。このように、教会が神のみ霊の降下を受けているときに、セブンスデー・アドベンチスト教会をバビロンであると言って攻撃するような小冊子が配られるということは、なんとしたことでしょう。教会が互いに励ましあって喜びに満たされている時に、大声で叫んで、神の民をその交わりから連れ出そうと欺かれて考えるようになった人がいるのはどうしたことでしょう。ああ、これらの欺かれた人々が本流に立ちかえり、祝福を受け、いと高きところから力を授けられますように。

レビュー・アンド・ヘラルド・1893年10月17日、
牧師への勧告19-23ページに再録


第三章 組織と発展

組織が一つの民としての私たちの間にとり入れられてから40年になろうとしています。私はその設立当初からの経験をしているメンバーのひとりでした。私は組織を確立する際、さまざまな困難に出会わねばならなかったが、それが設けられた目的は、いろいろな弊害を是正するためであったことを知っています。そして私は再臨運動の成長に組織の及ぼした影響力を見守ってきました。初期の段階では、神は特にこの点に光を与えられました。そして、この光は私たちが経験して教えられた教訓と合わせて、注意深く考えねばなりません。私たちの働きは最初から積極的でした。人の数は少なく、ほとんどの者が貧しい階級に属していました。私たちのもつ見解はほとんど世の中に知られることもありませんでした。私たちにはわずかの出版物があったほかは礼拝する家もなく、働きを前進させるための設備はきわめて限られていました。羊たちは大路や小道、都布や町や森の中に散らばっていました。神の戒めとイエスを信じる信仰が私たちの使命でありました。

信仰と教理における一致

私の夫も1844年が過ぎてからヨセフ・ベーツ、スティーブン・ピアス、ハイラム・エドソンの諸長老とともに、また頭のよい、高貴で忠実な人々のなかにまじって隠された宝を得ようと真理を探しました。
私たちは共に魂に重荷を荷ない、信仰と教理において一つであるように祈りました。それは、私たちがキリストは分裂されないことを知っていたからです。ある時には、一点だけが研究の課題になりました。聖書が畏敬の念をもって開かれました。しばしば私たちは、真理をよりよく理解するものとなるため断食をしました。熱心な祈りの後に、理解されない諸点が討議されました。各自が自由に自分の意見を発表しました。それから再び頭をたれて祈りました。キリストと天父がひとつであられるように私たちがひとつとなって、互いに顔を見合わせることができるように神の助けを天に向かって熱心に歎願しました。多くの涙が流されました。
 私たちはこのようにして多くの時間を費やしました。ある時には、現代の真理の理解に一晩中、聖書が厳粛に調べられました。ある時には神の霊が私たちの上に下りました。そして困難な箇所は神の示された方法によって明確にされ、そこには完全な調和がありました。私たちは皆ひとつの心、ひとつの精神になりました。
私たちは聖句がどんな人の意見であれ、それに都合のよいようにこじつけられることのないように真剣に求めました。私たちは種々な見解の中で、あまり重要でない点にはこだわらぬようにして、お互いの相違をできるだけ少なくしようとつとめました。しかし、すべての人々の心の願いは、キリストと天父とが一つであられるように、弟子たちがひとつになるようにとの主の祈りに応えるような状態を兄弟たちの間に生じさせることでした。
時には、提出された意見に、ひとり、ふたりの兄弟が頑固に反対し、感情をむきだしに表わすこともありました。しかし、こうした傾向があらわれた時は、私たちは研究を中止し、集会を閉じました。それは、各自が祈りによって神に近づく機会を持ち、他人と相談することなく相違点を吟昧し、天からの光を求めることができるようにするためでした。友惰を示して別れ、出来るだけ早く調べを進めるために再び集まりました。時に応じて神の力が顕著な方法で降りました。そして、明確な光が真理の諸点を明らかにしたとき、私たちは共に泣き、共に喜びました。私たちはイエスを愛し、お互いに愛しあいました。

教会秩序の導入

私たちの人員も次第にふえてきました。蒔かれた種に神は水をそそぎ、神はそれをふやしてくださいました。始めに私たちは礼拝のために集まりました。そして、聞きに集まった人たちに真理を示しました。それは、個人の家であったこともあったし、大きな台所や、納屋、小さい林の中、学校の建物の中などであったこともありました。しかし、間もなく私たちは礼拝のために小さい家を建てることができるようになりました。
私たちの人数が増加するにつれ、何かの形の組織がなければ大きな混乱が生じ、働きは成功の中に前進できないことが明らかでした。牧師の働きを支え、新しい伝道地に働きを進め、教会と牧師の働きとを信徒としてふさわしくない人々から守り、教会の財産を保存し、印刷所から真理の印刷物を発行し、そして、その他多くの目的をみたすために、組織は欠くべからざるものでありました。
しかし、わが民の間には、なお強い反対の気分がありました。ファースト・デー・アドベンチスト(第一日安息日再臨信徒)は組織に反対で、多くのセブンスデー・アドベンチストも同じ考えを持っていました。私たちは主のみ旨を理解できるように熱心に祈り求めました。そして、聖霊によって教会に秩序と徹底した規律がなければならないこと、―組織は必須なものである、という光が与えられたのです。組織と秩序は宇宙を通して神のすべての働きに表われています。秩序は天の法則であり、また、地上では神の民の法則でなければならないのです。

新しい企画にはいる

私たちは組織の確立にきびしい戦いを経ました。この点(組織)に関して、主が次々に、あかしを与えてくださったにもかかわらず、反対は強く、何度も何度も反対にあいました。しかし、私たちは、イスラエルの主なる神が私たちを導き、摂理によって事を運んで下さることを知っていました。私たちは組織の働きに没頭し、顕著な発展がこの前進運動に現われました。
働きの進展と共に私たちが新しい事業にとりかかるように召されたとき私たちにはそれらの働きに着手する準備ができていました。主は教育事業の重要性に私たちの心をむけられたのです。私たちは、子供たちが偽りの哲学の誤謬にとらわれない教えを受けられるような、また、彼らの訓練が神のみ言葉の原則に一致しているような学校の必要を知りました。健康に関する施設の必要が私たちにすすめられました。それは、私たちの民を助け、教えるとともに、他の人々の祝福と啓蒙に役立つものでした。この計画もまた着手されました。すべてこれらは最高の秩序を持った伝道事業であったのです。

団結した努力の結果

これらの働きは、大きな贈与や遺産によって維持されたのではありません。私たちの間には富める人はほとんどいませんでした。私たちの発展の秘密はなんであったでしょうか。私たちは私たちの救いの司令官の統率のもとに動いたのです。神は私たちの団結した努力を祝福されました。真理は広められ、栄えました。施設も増加しました。からし種は大きな木になりました。団体制度(システム・オブ・オーガニゼーション)は大きな成功をもたらしました。組織的な慈善は聖書の示す計画によってなされました。体は「しっかりと組み合わされ結び合わされ」ました。その後の進展によっても、私たちの団体制度は効果的であることが立証されました。

無秩序の危険をさける

私たちは、だれも組織なしにやっていけると考えてはなりません。この組織をつくるためには、多くの研究と共に、神がお答えくださったと知ることのできる知恵を求めて多くの祈りをささげねばなりませんでした。それは主のご指示に従って、多くの犠牲と戦いのうちに建てられたのです。私たちの兄弟のうち、だれひとりとして、それをこわそうなどという誘惑に欺かれてはなりません。なぜなら、あなたが夢にも思わなかったような事態を持ちこむことになるからです。私は、組織はたてられ、強められ、堅固になり、安定することを主のみ名において宣言します。私たちは神の「前進しなさい」という命令によって、困難がむらがっていて前進が不可能に見えた時でも前進しました。私たちは、私たちを今あるような民にした神のご計画を行なうのに、過去において、どれほどの価を払ったかということを知っています。ですから、神のみわざを前進させるのに、神が私たちを繁栄させ成功させるために定められたこれらの事柄について、だれも不安をいだくことがないように特に注意しなければなりません。
み使いたちは調和を保って働きます。かれらのすべての動きの特徴は完全な秩序です。私たちが天の軍勢の調和と秩序を、そのまま、まねすればするほど、天の使いたちの私たちのためにしてくれる努力は成功するのです。もし、私たちが調和のある活動の必要を認めず、私たちの働きの進め方が無秩序、無規律で、無組緻であれば、徹底的に組織され、完全な秩序のもとに動く天使たちは私たちのために働きを成功させることができません。彼らは悲しんで立ち去ります。なぜなら、彼らは、混乱、破壊、無組織を祝福することは承認されていないからです。天の使者たちの協力を希望する人は彼らと和合して働かねばなりません。高きところから油をそそがれる人たちは組織、規律、一致した行動を最大の努力をもって促進します。その時、天の使いは彼らに協力することができます。しかし、これらの天の使者たちは決して、不規則、無組織無秩序に力をかすことはしません。これらのすべての害悪は私たちの力を弱め、勇気をくじき、活動の成功を、阻害しようとするサタンの努力に端を発しています。
サタンは、成功は秩序だった調和のある行動だけに伴うものであることをよく知っています。彼は天に関係のあるものはすべて完全な秩序のもとにあり、服従と規律が天の軍勢の諸活動の特徴であることをよく知っています。クリスチャンであると告白する人をできるかぎり、天の制度から遠くに導くのが、彼の周到な企てなのです。それゆえ、彼は神の民と告白する人さえもあざむき、秩序や規律は霊的なことがらの敵であり、彼らにとって唯一の安全は、各自がそれぞれの道を歩み、特に団結して働き、規律を設け、調和のとれた行動をしようとするクリスチャンの団体から離れていた方がよいと信じさせます。秩序を立てるすべての努力は危険であり、正当な自由を抑制することであって、法王制と同様に恐ろしいものだと考えさせるのです。こうした考えに傾いている人々は、独自に考え行動する自由を誇ることを一つの美徳と考えます。彼らは他人のどんな発言をも聞きません。彼らは人を受け入れないのです。自分で考え出し、他の兄弟たちとは独自に自分の道を選択することが神の秩序であると人々に思わせるのがサタンの特別な働きであることを私は示されました。
神は、人々をこの世から永遠の真理すなわち、神の戒めとイエスを信じる信仰という高い場所に導こうとされています。主はその民を鍛え、ふさわしいものにされます。彼らは、ひとりがある事を考え、他の人がこれと全く相反する信仰と見解を持って、それぞれが全体とは別に動くような不一致に導かれることはありません。彼らは主が教会におかれた種々の賜物と管理のさまざまな事柄を通して信仰の一致に到達します。もし、ひとりの人が兄弟方の意見を無視して聖書の真理に自分の見解をとり、それを正当化して彼自身の特異な見解をもつ権利があると主張し、他の人々にそれを押しつけるならば、彼はどうしてキリストの祈りを成就できるでしょう。そして、もし他の人々が次々に立ち上がって各自が全体の信仰にはおかまいなく、彼の好きなことを信じたり、話したりする権利があると主張するならば、キリストと天父との間に存在する調和や、キリストがその兄弟たちの間に存在するように祈られた調和はどこにあるでしょうか。

個人の責任とクリスチャンの一致

私たちは神の前に、個人的な働きと個人的な責任とを持っていますが、兄弟方の意見や感情を無視して、自分の独立した判断を固執してはなりません。なぜなら、こうした行動は、教会の無秩序につながるからです。兄弟方の判断を尊重することは、牧師の義務です。しかし、彼ら相互の関係は、彼らが教える教理と同様に律法とあかしの標準によってはかられるべきです。そして、もし、人々がよく教えを聞くなら、私たちの間に分裂はありません。ある人は無秩序になる傾向を持ち、信仰の重大な境界標から迷いでることがあります。しかし、神は牧師たちが教理と精神においてひとつとなるように導かれます。
今日、私たちの一致は試練に耐えるためのひとつの特徴とならねばなりません。私たちには、多くの学ぶべき教訓と、そしてさらに多くの学び直すべき教訓とがあります。神と天だけが無謬です。どんな場合でも自分の抱いている見解を放棄する必要はない、また自分の意見を変える必要もないと考える人々は失望するでしょう。私たちが自分の考えや説を決定的に主張し続けるならば、私たちはキリストが祈られた一致を持つことはできません。
ひとりの兄弟が聖書に新しい光を受けた時は、彼は率直にその見解を説明し、すべての牧師は、提出された事柄が霊感の言葉によって支持されるものであるかどうか公正な精神で聖書を探るべきです。「主の僕たる者は争ってはならない。だれに対しても親切であって、よく教え、よく忍び、反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は、彼らに悔改めの心を与えて、真理を知らせて下さるであろう」(テモテ第二 2章24、25節)

神がして下さったこと

私たちの過去の歴史をふりかえって、一歩一歩、現在の立場に前進してきたことを考えると、私たちは神をほめたたえずにはおられません。私は神がしてくださったことを見て、驚きに満たされると共に、指導者としてのキリストに対する信頼に満たされます。私たちは主が導いてくださった道を忘れない限り、将来に対して何も恐れることはありません。
私たちは主に信頼をおくならば、今や、強い民です。なぜなら、私たちは、神のみ言葉の偉大な真理を扱っているからです。私たちは感謝すべきあらゆるものを持っています。神の活けるみ言葉から輝きでる光の中を歩む時、私たちは、神が私たちに与えられた光の大ききに比例して責任も大きくなるのです。私たちは聖なる真理のあらゆる美と栄光とを世界に与えるためにその受託者とされているので、それを遂行する多くの義務を負わせられています。私たちは、神に、おいめを持つ者として、主が私たちにゆだねられたあらゆる機会を用いて、品性の清さをもって真理を飾り、誤謬と罪の暗黒にいる人々に愛と希望と慰めと警告の使命を送らねばならないのです。
わが青少年に宗教的・知的訓練を与える施設を備えるために、これまでになされたことに対して神に感謝しましょう。多くの人々が単にアメリカだけでなく、外国の伝道地でも、働きのさまざまな部門で活動するように教育されてきました。出版所は真理の知識を遠く広く配布できる文書を供給してきました。すべての賜物が小川のように、ゆたかな慈愛にみちて流れ出ていることを認めて神に感謝しましょう。
今日、私たちは、もし正しく指導し、勇気づけるならば、多くのことをすることのできる青年の群れを持っています。私たちは私たちの子供たちが真理を信じることを望みます。彼らが神に祝福されることを望みます。また、他の青年たちを助けるために、よく組織された計画の中で、彼らが活躍することを望みます。彼らすべての者が、自分たちが内に持っている希望の理由を明らかにすることができ、また定められた働きのどんな部門においても、神の栄光を現わすことによって、真理を正しく代表するように訓練を受けさせたいものです。
キリストの弟子として、世が持っていない光をまきちらすのは私たちの義務です。神の民は、「良い行いをし、良いわざに富み、惜しみなく施し、人に分け与えることを喜び、こうして、真のいのちを得るために、未来に備えてよい土台を自分のために築きあげるように」しましょう。


第二部 残りの教会はバビロンではない

第二部は、レビュー・アンド・ヘラルドに1893年8月22日から9月19日まで連載された記事を編集したものである。

第一章 告発者とその働き

私はS兄弟と、また彼と一緒になって、その働きをしている人々が発行した小冊子を読んで、非常に悲しくなりました。私の承諾なしに、彼らは、「あかし」から引用をし、彼らが発行した小冊子に挿入し、私の書き物が彼らの意見を支持し、彼らが主張している立場を承認しているかのように、見せかけました。こうすることによって、彼らは正当でも、義でもないことをしました。彼らは不当な自由で、人を欺き、破滅させる性質の論説を、民に配りました。過去において多くの人々がこれと同じことをしました。そして「あかし」は、この支持できない、間違った説を支持しているようにみせかけました。
私はS兄弟と、その同調者の意見が、真実なものでなく、現代の特徴である「見よ、ここに」「見よ、あすこに」という類のものであることを、明白にする光を得ました。S兄弟がこの小冊子を、編集した過程の一例として、次のような出来事を説明しましょう。私は、私たちの牧師のひとりに、個人的な手紙を書きました。この人はこの手紙を親切心からS兄弟の助けにもなろうと思って、写しを彼に送ったのです。ところが彼はそれを、自分のための助けとみないで、未発表の「あかし」として、彼の意見を支持するために一部を小冊子として印刷したのです。これは正当なことでしょうか。「あかし」の中にはS兄弟の意見を支持するようなものは何もありません。彼は、多くの人が、聖書をあやまって用いるように、あかしを誤用して、自分の魂と他人の魂をそこなうのです。不当な自由を行使し、卑劣な手段を用いて、自分が真理だと考える事柄に重みと影響力とを持たせようとする人々を神はさばかれるでしょう。別の人に送られた個人的手紙を、用いることによって、S兄弟は、彼を助けようと望んでいた人の親切な努力を悪用したのです。「大いなる叫び」と、すべての教会の堕落について、小冊子を発行している人々は神の聖霊が、彼らと共に働いておられないことを証明しています。「その実によって、被らを知る」のです。
これらの誤った説を、弁護する小冊子を受け取った人は、私が彼らが「新しい光」と宣言している、この説を支持し、彼らの働きとひとつになっている、という印象を、受けるでしょう。私は彼らの使命に真理がまじっており、真理が誤用され、誤りと結びつけるため、こじつけられているのを知っています。私は、私が書いた手紙の写しを、これらの人に送ったあなたを、非難するような考えは、少しももっていません。だれも、この問題に関してあなたを少しでも非難すべきではありません。あなたの動機と意図がよかったのに、あなたを誤解して、非難するならば、私は神の不興を招くでしょう。あなたが助けようと思った兄弟が、勝手なことをして、あなたの信頼をうらぎったのならば、あなたは自分を責めたり、彼の不忠実の結果を、嘆くこともありません。

弟子たちへの教訓

「あかし」の中に書かれている事柄は、広く世のために書かれたのではなく、神を信じる子らのために書かれたのです。それは、世の中に対して、警告、非難、あるいは、この種の勧告や教えを公にしようとするものではありません。世の贖罪者、神が送られた方、人の子らがこれまでに知った最高の教師は、ある種の教訓を、世のためでなく、その弟子たちにだけ与えられました。主は主の後を追って来た群衆のために、お話しになる一方では、大聴衆には、彼らが理解も評価もできないために、与えられなかった特別の光と教えを、主の弟子たちに与えられたのです。主はその弟子たちを、宣教に送られました。そして、彼らが最初の伝道の働きから帰って、神のみ国の福音の宣教の成功について様々な経験を語った時、主は彼らに「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」といわれました。人里はなれた場所で、イエスは、彼らが働きの途上で必要になると思われた、教え、勧告、注意、矯正などを弟子たちに与えられました。しかし、主がそのとき彼らに与えられた教えは、雑多な人々の群れに対して、広く与えられたものではありません。なぜなら主の言葉は、弟子たちだけに、計画されたものだったからでした。
主はたびたび癒しの働きをなさった機会に、主が祝福された人々に、主の行動を他の人に告げないように命じられました。彼らは主の命令に注意すべきでした。また、キリストは彼らが沈黙しているように、軽々しく要求されたのではなかったことを、彼らは知るべきだったのです。そうすれば、主の命令には理由があったことを知り、主が表わされた希望を、無視するようなことは、おこらなかったのです。彼らは、主がだまっているように、希望されたということ、主の差し迫ったたのみには十分な理由があるのだ、ということを知っているだけで十分だったのです。主は病人を癒し、盲人の視力を回復する奇跡をなさり、癩病をきよめられる時、御自身の生命を危険にさらすことを、知っておられました。なぜなら祭司や司たちは、主が彼らに与えられた、主の天の使命の証拠を受けとりたくなかったのです。彼らは主に反対して曲解し、誤ったものにし、非難したかったのです。主が公に何度も奇跡をされたことは事実です。しかし、ある場合には、主が祝福された人々に、主が彼らになされたことを、誰にも話さないように求められたのです。主は偏見が呼びおこされ、ねたみとしっとが心にいだかれた時、また、主の道が妨げられた時、町々を去って、主が与えようとされる真理を、感謝して聞きたいと望む人を、探して行かれたのです。
主イエスは、主が群衆にたいして公にされなかった多くのことを、弟子たちには、明らかにする必要があると考えられたのです。主は学者、パリサイ人、祭司によって表わされた憎しみの理由を、弟子たちに、はっきりとあらわされ、主が苦しみを受け、そむかれ、死にわたされることを彼らに語られました。しかし、世に対しては、これらのことをあまり明確にはされませんでした。主は弟子たちに、悲しい事態が起こってくること、そして、彼らが覚悟しなければならないことを、警告しなければなりませんでした。主は弟子たちが、主の死、復活、昇天の後まで理解できなかったような、大切な教えまで、彼らに与えられたのです。聖霊が彼らの上にそそがれた時、主が彼らに言われたすべてのことを、思い出したのでした。

信頼のうらぎり

イエスが秘密にしておきたいと思われたことを、とりあげ、他人にそれを発表し、真理に非難と侮辱をもたらすことは、聖なる信頼に対する裏切りでありました。主はその民に必要な、警告、誼責、勧告、教えを与えられてきました。しかし、それらの使命が関係外の人に、与えられたり、誤った使命を与えようとしている人々に、与えられたりすることは、望まれませんでした。S兄弟とその協力者によって発行された小冊子の中で、神の教会はバビロンであると非難され、教会からの分離を促されています。これは、正当な働きでも、義なる働きでもありません。この働きを構成するために、彼らは、私の名と書きものを利用し、私が承認することのできない、むしろ誤謬を告発しているものの、支持のために用いました。この小冊子を受けとった人々は、私の書きものの教えと神が私に与えられた光に全く反していながら、この誤った説の責任は私にあると、非難するでしょう。私はなんのためらいもなく、この働きにたずさわっている人々は、ひどく欺かれているということを申しておきます。

誤った使命

数年来、私は、大きな光を持っていると主張して立ちあがり、その上、主が人間の器を通して築かれたものを、こわそうとする主唱者に、彼らはひどく欺かれており、その働きは、イエスが働かれた線にそうものでないということを示す、あかしをしてきました。セブンスデー・アドベンチスト教会はバビロンであるか、バビロンの一部であると主張する人々は家にとどまっていたほうがよいでしょう。立ちどまって、この時代に宣言すべき使命はなんであるかを考えなさい。主の日に、人々が立ち上がる備えのために天の器と働く場所で、彼らは兄弟の非難者と共に立ち、神の前に日夜兄弟たちを非難しているのです。サタンの器は黄泉からおどらされ、人々をそそのかして、悪の連盟に加えさせ、神の民を混乱させ、悩ませ、大きな災を起こさせようとするでしょう。全世界はセブンスデー・アドベンチストに敵意をもつように、せん動されます。なぜなら、彼らは、反キリストの勢力の制度である日曜日を、正当なものと認めないで、法王の定めた制度に従うことをしないからです。サタンの目的は、自己のこの世に対する支配権が阻止されないように、彼らを地上から抹殺してしまうことにあるのです。

サタンの非難

サタンの非難の光景は預言者によって示されています。彼は「時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された」といっています。イエスは天における私たちの偉大な大祭司です。そして、主は何をなさっておられるのでしょうか。主は、主を信じる主の民の仲保と贖いをされているのです。彼らは主の着せられた義を通して、主のすべての戒めを守って、神に忠誠を表わしていることを世に示す人々として、神に受け入れられているのです。サタンは彼らに対する悪意と憎しみに満ちており、イエス・キリストが地上におられた時、主にあらわした彼の同じ精神を彼らに表しています。イエスがピラトの前におられた時、ローマの支配者は主を解放しようとしました。彼は、主がなめようとしている責め苦からイエスを解放するのを人々が選ぶのを望みました。彼はわめき叫ぶ群衆の前に、神のみ子と犯罪者を示して「ふたりのうち、どちらをゆるしてほしいのか。バラバかキリストと呼ばれるイエスか」と尋ねました。「彼らは『バラバの方を』といった。ピラトは言った『それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか。』彼らはいっせいに『十字架につけよ』と言った」のでした。
この世はサタンのねたみによってかきたてられました。それで、神のみ子か犯罪者バラバのどちらかを選ぶように求められた時、彼らはイエスよりも盗賊を選んだのでした。無知な群衆は、高い地位にある人々の偽りの理由づけであり殺人者であった者を選ぶように導かれたのでした。私たちはみな、まだ、神のみ子イエスが拒絶され、十字架につけられたところ、キリストをあなどる罪を犯し、けがれのない神の小羊よりもむしろ盗賊を選んだこの世界に、いることを記憶しておきましょう。私たちが神の律法に違反したことの故に、神に対して個人的な悔い改めをし、世が拒絶した主なるイエス・キリストに対する信仰を働かせないならば、私たちは、キリストの功のかわりにバラバを選んだ行為に対して完全に罪の宣告の下に置かれるのです。全世界は神のみ子を故意に拒絶し、殺したことで、今日、告訴されているのです。み言葉はユダヤ人でも、異邦人でも、王、支配者、大臣、僧侶また、民衆であっても、かつて神の子を死に定めた人々があらわしたと同じ、ねたみ、にくしみ、偏見、不信の精神をあらわす、すべての階級も集団も、キリストの時代のユダヤ人たちがしたのと同様に、機会があれば、同じことをするということを、記録に残しているのです。
私たちに対するキリストの働きと、サタンの決定的な告訴を示す光景の中で、ヨシュアは大祭司として立ち、神の律法を守る人々のために要求をしています。同時に、サタンは神の民を大罪人として主張し、サタンが誘惑して彼らの生涯に犯させた罪のリストを神の前に示して、彼らはその違反のゆえにサタンの手中におかれて滅びねばならないと主張しています。サタンは、彼らが悪の連合にたちむかって働く天使の保護を受けるべきではないと主張しています。サタンは、神の民を世と結びつけて、サタンに完全な忠誠をささげるようにすることができないので怒りにみちています。王や司や、支配者たちは、自らの上に反キリストの烙印をおして、「神の戒めを守り、イエスの信仰を保つ」聖徒と戦うために出てゆく龍として描写されています。彼らの神の民に対する敵意の中に、彼らもまたキリストのかわりに、バラバを選ぶという罪を自ら犯すのです。

この世は清算しなければならない

神は、この世と論争しておられます。審きが始まり、書が開かれる時、主は清算すべき途方もない莫大な勧定口座を持っておられます。今、世の人々がサタンのまどわしと偽瞞に目がくらみ、心うばわれてしまっていないなら、それは彼らを恐れさせ、ふるえあがらせるものです。神は、その愛する独り子の死にたいして、清算を世に求められます。世はあらゆる点でキリストを、あらためて十字架につけ、主の民を迫害することによって主を公然と恥ずかしめているのです。世は聖徒たちを拒絶することによってキリストを拒絶し、預言者、使徒、使命者の使命を拒絶することによって主の使命を拒絶しました。彼らは、キリストと共働してきた人々を拒絶したため、その勘定を支払わねばならないのです。

告発者は非難される

サタンは兄弟達を告発する者の先頭に立っています。しかし、彼が神の民の罪を提示する時、主はなんと答えられるでしょう。聖書は主が、試みを受けた人の代表であり、選ばれた神の民を代表するヨシュアを責めないで、「主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか」といわれ「ヨシュアは汚れた衣を着てーみ使の前に立っていたか」と記しています。サタンは選ばれた忠実な神の民を全く汚れた、罪に満ちたものとして示しました。彼は彼らが犯した特定の罪を述べることかできました。彼は、これらの罪に彼らを誘惑するのに、悪の全連合をこの働きにつけたのではなかったでしょうか。しかし、彼らは悔い改めました。彼らはキリストの義を受け入れました。それゆえ、彼らは神の前にキリストの義の衣を着て立ったのです。「み使は自分の前に立っている者どもに言った、『彼の汚れた衣を脱せなさい』、またヨシュアに向かって言った、「見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたは祭服を着せよう。」彼らが犯したすべての罪は許され、彼らは選ばれ、忠実な者として、あたかも罪を犯したことがなかったかのように完全なものとして神の前に立ったのでした。

励ましの言葉

「わたしは言った、『清い帽子を頭にかぶらせなさい。』そこで(神の使は)清い帽子を頭にかぶらせ、衣を彼に着せた。主の使は(彼らの贖罪者イエスの)かたわらに立っていた。主の使は、ヨシュアを戒めて言った、「万軍の主は、こう仰せられる、あなたがもし、わたしの道に歩み、わたしの務めを守るならば、わたしの家をつかさどり、わたしの庭を守ることができる。わたしはまた、ここに立っている者どもの中に行き来することを得させる。」私は現代の真理を信じていると主張するすべての人がこの章に示されている驚くべき事柄を真剣に考えるように望みます。たとえ、神の民が弱く、優柔不断であろうとも、この邪悪な反逆の世代で、神に対する不忠実に背を向け、忠誠に帰り、神の聖なる律法の支持に立ち、サタンの指示のもとに罪の人によってなされたやぶれをつくろうならば、神の子供として認められ、キリストの義によって、神の前に完全に立つのです。真理はちりの中で人の足に踏みつけられてはいません。それは拡大され、尊ばれるものです。それは、起きて、自然の光の中で輝きを増し加え、世々かぎりなく永遠に堅固に立つのです。

レビュー・アンド・ヘラルド 1893年8月22、29日。
「牧師へのあかし」32〜41ページに再録。


第二章 教会はバビロンではない

神は、全天が関心を持っているひとつの民を持っておられます。彼らは地上で神がみ心を、むけられる唯一の対象です。これからの言葉を読む人は、その言葉に徹底的な考慮を払ってください。なぜなら、私はイエスの名において、各自の心にこの言葉を刻みつけたいからです。私たちの内部の者であれ、外部の者であれ、だれかが、神の民はバビロンであり、そこから出て来るようにと叫ぶ使命を負ったと思って立ち上がる時、あなたがたは、彼が真理の使命をもっていないということを知らねばなりません。彼を受けいれてはならず、彼の成功を祈ってもなりません。なぜなら、神は彼に語っておられず、彼に使命も与えておられず、しかも遣わされていないのに走っているからです。「大いなる叫び」と呼ばれる小冊子の中にある使命は偽りです。このような小冊子が送られて来るでしょう。そして、それは神から遣わされたと主張するのです。しかし、その主張は誤りです。なぜなら、それらは光に満たされておらず、闇に覆われているからです。それは、神の民を非難するためにサタンがした働きと同様に神の民を非難する使命です。これらの使命は神が主の民に「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる」といわれるその時に、いわれだすのです。

欺きの働き

誤った使命をもっている人たちは、面目と誠実との高い観念を持っていないことがわかります。彼らは人々を欺き、彼らの誤りに、ホワイト夫人の「あかし」を混合します。そして、自分たちの働きに影響力を持たせるように、彼女の名を用います。彼らは、自分たちの立場を支持するために、こじつけることができると思われるような部分を「あかし」からえらんで引用し、それを誤った背景の中に置きます。それで、彼らの誤りは正しそうに見え、人々に受け入れられます。彼らは、神が教会に与えられた、神の残りの民を形づくるのに必要な警告、勧告、講責、慰め、励ましを曲解し、誤って適用します。神の使命として「あかし」を受けとっている人々は、それによって助けられ、祝福をうけます。しかし、その一部だけをとり、単に、ある説や自分の考えを支持するために用いたり、自分の誤りを弁護するために用いるのでは、その教えから祝福や利益を受けとることはできません。セブンスデー・アドベンチスト教会がバビロンであると主張することは、兄弟を告発し、昼も夜も神の前で彼らを非難するサタンと同じ主張をしているのです。「あかし」のこの悪用によって、人々は混乱におちいります。というのは、人々は、「あかし」とこのような彼らの誤りの主張との関係を理解できないからです。神は、「あかし」が常に真理の骨組になるようにされているのです。
誤りを弁護する人たちは「主は言われた」とか「主が語られた時」とかいいます。彼らは偽りを証明していて、真理を証明していません。教会がバビロンであると主張してきた人々が、この誤りを出版し宣伝するために費やしてきた金銭を、破壊するためではなく、築くために使ったのだったら、彼らは神が導いておられる人たちであることを明らかにしたでしょう。
この世界でなされねばならない大きな働き、外国でなされねばならない大きな働きがあります。青年や子供たちのために、また、更に成熟した年令の人たちが、急速に外国伝道に入れるように教育を受けることのできる学校が設立されねばなりません。これは、外国伝道の宣教師ばかりでなく、すべての種類の賢明な、分別のある働き人が必要です。マケドニヤ人の叫びが、世界のあちら、こちらから聞こえてきます。「渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」と。でて行ってすべての被造物に、福音を説教する責任にともなって、人と金銭の大きな必要があります。サタンは金銭をきゅうくつにするためあらゆる手段で働き、人々をなすべき働きにつかせないように妨害しています。礼拝の家を建てるよき業をするため、また、神の大いなる日に立てるように人々を備えるため、忍耐深い、勤勉な、困難に勝つことのできる働きをする器に青年男女を育成する、宣教の教育目的をもつ学校の設立に、用いらるべき金は、有益な、祝福の水路から、悪とのろいの水路にそらされています。
私たちの前には神の大いなる日があり、近づいています。それゆえ、なされねばならぬ大きな働きがあり、速やかになされねばなりません。しかし、しなければならない働きの中にあって、現代の真理を信じていると公言しながら、彼らに依託された金銭を用いる方法を知らない人々がいます。柔和の欠除と心の低さがたりないために、彼らは、どれほど大きな働きがなされねばならないのか知りません。イエスから学ぶ人はだれでも、神の共労者です。しかし、時間と金を空しい業についやして、誤謬を宣伝する人々は、新しい伝道地の忠実な働き人に余分な重荷を負わせているのです。なぜなら彼らは時間を真理の擁護に使えないで、自分たちは、天からの使命を持っている、と主張して偽りを宣伝している人々の働きを阻止する仕事につかなければならないからです。
この種の働きをしてきた人々が、主が十字架の直前に天父に捧げられたキリストの祈り ―主と天父がひとつであるように弟子たちもひとつになることー に答える必要を感じるならば、彼らに託された真理の前進に大変必要な金銭を、浪費しないでしょう。誤謬を伝播するのに大切な時間と能力を浪費し、働き人が誤った影響を阻止し打ち消すために時間を費やさねばならないようなことをしないでしょう。この種の働きは上からではなく、黄泉からあおられた働きです。「あなたがたのうち主を恐れ、そのしもべの声に聞き従い、暗い中を歩いて光を得なくても、なお主の名を頼み、おのれの神にたよる者はだれか。見よ、火を燃やし、たいまつをともす者よ、皆その火の炎の中を歩め、またその燃やした、たいまつの中を歩め、あなたがたは、これをわたしの手から受けて、苦しみのうちに伏し倒れる」教会はバビロンであると宣伝して来た人々によって伝えられた使命は、神は地上に教会を持たれないという印象を与えました。

生きた教会

神は生きた教会を持っておられないでしょうか。主は教会を持っておられます。しかし、それは戦闘している教会で、勝利した教会ではありません。欠陥のある信徒がおり、よい麦の中に毒麦があるのは残念です。「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。…僕たちが来て、家の主人に言った『ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか』主人は言った。『それは敵のしわざだ。』すると僕たちがいった『では行って、それを抜き集めましょうか』彼は言った『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。収穫まで、両方とも育つままにしておけ、収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にしておき、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう」一とイエスはいわれます。
麦と毒麦の譬の中で、何ゆえ毒麦が引き抜かれてはならないかという理由がわかります。麦の根が毒麦の根と共に引き抜かれないためです。人間の意見や判断は大きな誤ちを犯します。しかし、ひとつの間違いがなされて、一本の麦でも抜かれるよりは、主は、「収穫まで、両方ともそのままにしておけ」といわれます。そして、天使は、滅ぼすように定められた毒麦を集めます。私たちの教会でも、高度な真理を信じているといいながら、麦の中の毒麦のように、偽りと誤ちを犯している人たちがいます。神は耐え忍んでおられます。主は誤りを戒め、警告されます「しかし、主は、主が彼らに教えようときれる教訓を学ぶのに遅い者を滅ぼされません。主は毒麦を麦の中から追い出されません。毒麦も麦も収穫まで共にはえているのです。そして、麦が充分に成長し、発達し、その成熟した時の性質のゆえに、麦は毒麦からはっきり区別されるのです。
地上のキリストの教会は不完全です。しかし、神は、不完全だからといって、主の教会を滅ぼされはしません。知識によらないで、熱心さに満ち、教会を清めようと望み、麦の真中から毒麦を取り除こうと願う人が過去にもいましたし、これからもいることでしょう。しかし、キリストは誤ちを犯している人たち、教会にいながら悔い改めていない人たちを、どのようにあつかうべきか、特別な光を与えられました。それは、人々が品性に欠陥をもっていると考える人を切りとってしまうために、教会員が、発作的に、熱狂的な、気短な行動をとることではありません。毒麦はよい麦の間に現われます。しかし、神が定められた方法によらないで、毒麦を取り除くことは彼らをそのままにしておくよりも、一層害があります。主が教会に真心から回心した人をつれてこられる一方、サタンは同時に、その交わりに回心させられていない人々をつれて来ます。キリストがよい種を播いておられる一方、サタンは毒麦の種を播いています。二つの正反対の影響がたえず教会員に働くのです。ひとつの影響は教会の聖化のために働き、もうひとつは、神の民を堕落させるために働きます。
イエスはユダに品性上の欠陥のあるのを知っておられました。しかし、それにもかかわらず、主は彼を弟子のひとりとして受け入れ、彼に、主が選ばれた他の者たちに与えられたと同じ機会と特権を与えられました。ユダは後に彼が行なった悪を行なうなんの口実もありませんでした。ユダはみ言葉を行なうのに、ペテロやヤコブ、ヨハネ、他の弟子達と異なるところはなかったのです。主と交わる者が回心させられ、もはや、かれらの品性を傷つけるどんな欠陥にもとりつかれることのないように、イエスは尊い数々の教訓を与えられたのです。

レビュー・アンド・ヘラルド・1893年・8月29日、9月5日。
「牧師へのあかし」41ページー47ページに再録。


第三章 戦闘する教会

ある人々は、教会に入るにあたって、あたかも、自分たちの期待が満たされ、純潔で完全な人々とだけ会えるかのように思っているようです。彼らは自分たちの信仰に熱心です。そして、教会員に欠点のあるのを知ると、彼らは「私たちは悪い性質の人と交際しないために世からでてきたのに、ここにも、悪がある」といいます。そして、彼らは、譬話しの中の僕が言ったように「毒麦はどこから来たのだろうか」と問うのです。しかし、私たちは、このような失望をする必要はありません。なぜなら、主が、教会は完全であるとの結論に達するように保証しておられないからです。私たちの熱心は必ずしも戦う教会を勝利した教会のように純潔にできるものではありません。主は、私たちが誤っていると考える人々に対して乱暴な方法をとることを禁じておられます。私たちは、誤ちのある人々を交際からはずしたり、公然と非難したりしてはなりません。
有限な人間は、品性の判断に誤りを犯しやすいものです。だから、神は審く資格をもたない人間に、品性を審いたり、公言したりする仕事をまかされません。私たちは、誰がよい麦で、だれが毒麦だ、などといってはなりません。収穫の時には毒麦とよい麦の区別によって、だれでも、二つのはっきりした性格の分類に分けられます。分類の仕事は神の天使たちに与えられていて、人の手にはゆだねられていません。
偽りの教理は教会内に働くサタン的感化力のひとつです。心から回心していない人をまきこみます。人々はイエス・キリストの言葉に従いません。しかも、信仰と霊と教理の一致を求めます。彼らはキリストが祈られた精神の一致のためには働きません。それで、神がみ子をこの世に遣わされたのは「み子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」ということを世に信じさせるために、キリストの弟子たちが効果的になすべきあかしを彼らはしらないのです。もし、キリストが祈られた一致が神の民の間に存在するならば、彼らは生きたあかしをたて、世の道徳的暗闇の真中に輝く明るい光をもたらすはずです。

サタンは試みることを許されている

信徒の間に、存在すべき一致のかわりに、不一致が存在しています。なぜならサタンは、キリストの柔和と心のへりくだりを学んでいない人々の間に、はいりこんできて、もっともらしい偽りと欺きによって教会と違った立場をとらせ、出来ることなら教会の一致を破ろうとしているからです。人々は立ち上がって、弟子たちを自分たちにつづいて引離そうと、まがった事柄を言います。彼らは神が彼らに大きな光を与えられたと主張します。しかし、その影響下でしている彼らの行動はどんなものでしょう。エマオへの旅をする二人の弟子の過程をふんでいるのでしょうか。二人の弟子たちが光を受けたとき、彼らは神が導いて来られ、いまも導いて知られる人々のところに帰って、彼らの前で、彼らがイエスを見た次第と主と話したことがらを話しました。
教会について光を持つべきであると主張してきた人々はこの過程をふんだでしょうか。彼らは生きたあかしをするために神の選ばれた人々のところに行って、この光は民を神の大いなる日に耐えられるように、よりよく準備させることのできる光であるという証拠を示したでしょうか。彼らは、真理を荷なってきた、そして今も荷なっている人々、そして、警告の最後の使命を世に与えている人々の勧告を求めて来たでしょうか。彼らは神の事柄に深い経験を持ってきた人々と相談したことがあるでしょうか。なぜ、これらの人々は主張に熱心でありながら、聖霊の降下の時に、エルサレムにいた信心深い人たちのように、バトル・クリークで開かれた世界総会に出席しないのでしょうか。働きの真直中で、人々が光の宝庫を開き、主が聖霊を人々の上にそそいでおられた時、これらの人々は天の油を受けたでしょうか。人々の間に神の霊の深い感動があらわされ、魂が悔い改め、強情な心もくずおれていた時、これらの人々はサタンの提案に耳を傾けていたのです。そして彼らは下から出て来る熱心に励まされて、後の雨と、全地を明るくする栄光を受けるために、聖霊を受けていたその民をバビロンであると宣言していたのです。主はこれらの使命者に、彼らの使命を与えられたのでしょうか。そうではありません。それは真理の使命ではなかったのです。

世の光・教会

たとえ、悪が教会に存在し、世の終りまでその存在が続こうとも、終末時代の教会は、罪にけがされ、不道徳化した世に対して光であります。譴責、警告、勧告を必要とする弱い、欠点のある教会はキリストが最高の関心をはらわれる地上の唯一の対象です。この世界は人間と天の器の協力によって、イエスが恵みと天の慈悲を人間の心に与えようとこころみられる仕事場です。天使は神に自我をゆだねた人に起こる品性の変革を見て驚き、神と子羊に対する喜びの賛美を歌って、その喜びを表わします。天使たちは生まれながら怒りの子であった人間が回心し、魂を神にひきよせるためにキリストと協力する者になるのを見ます。天使たちは、暗黒の中にあった人間が、この邪悪な堕落した時代の道徳の闇夜に光を輝かす者になるのを見ます。天使たちは、彼らが、キリストと同じ経験によって、共に苦しむ覚悟ができ、後に、天上で主の栄光に、主と共にあずかる者になるのを見ます。
神は、ふみにじられた律法を回復し、世の罪を取り除く神の子羊を、世に示す教会を地上に持っておられます。教会はキリストの恵みの豊かな富を、貯えているところであり、教会から世の中に神の愛の完全な、究極的な現われが、時にかなってなされ、この世はその栄光によって明るくされるのです。キリストの祈りは、主の教会が、主と天父とが、ひとつのように、ひとつとなることであり、その祈りは最後には答えられます。聖霊の豊かな賜物が与えられ、神の民に対するその絶えざる供給によって、彼らは世にあって神の救いの力の証人になるのです。

破壊する働き

現代において、(詩篇106篇23節) 破れ口に立ち、防壁を築き、長く荒廃した場所を修復する教会は、世界に唯一つしかありません。それゆえ、この教会はバビロンであると非難して、世の中と他の教会の注意をひく人たちがいるならば、彼らは兄弟を告発する者と一緒になった働きをすることになるのです。誤ったことを語り、サタンがまさに、神の律法を守り、イエスの信仰をもつ人たちについて流布したい、と思っていることを、声に出す人間が私たちの間からおこるということがあり得るでしょうか。誤謬の暗黒にある人々に真理を示す働きは、熱心に働くかいが、ないのでしょうか。金銭と能力の監理者とされてきた者として、あなたたちは誤謬を流布することに主の財産を悪用しているのです。全世界は神の律法の拘束的要求をのべ伝える者に対する憎しみを持っています。エホバに忠実な教会の戦いは普通の戦いではないのです。「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦である。」この戦いの意味することを知る者はだれでも、戦闘する教会を敵にまわして、武器をとるようなことはしないでしょう。むしろ、全力をもちいて、悪の連合に対抗して、神の民と共に戦うでしょう。
自分個人の責任で使命を宣言しようとし、神から教えられ、導かれたといいながら、神が長いことかかつて建てられたものを破壊しようと、特別に働くことは、神のみ心を行なっていることになりません。彼らは大いなる偽瞞者の側に立っていることを知らねばなりません。彼らを信じてはなりません。彼らは神と真理の敵に組しているのです。彼らは伝道の組織を、俗界に勢力を広めようとする宗教の政略体制だとあざけるのです。そのようなものからは遠ざかりなさい。彼らがどんなに、「あかし」から多くを引用し、彼らの立場を強めようとしても、彼らの使命とは何の関係も持ってはなりません。彼らを受け入れてはなりません。それは、そうするように神が彼らに使命を与えられたのではないからです。このような働きの結果は、「あかし」に不信をもたらすでしょう。彼らは、私が長い間なしてきた働きを、できる限り、効果のないものにしようとしているのです。
私は生涯の大部分をこの働きに捧げて来ました。しかし、私の重荷はしばしば、このような、神が与えられなかった使命を宣べ伝えるために立ちあがった人々によってたえがたいものにされました。この種の邪悪な働き人は、「あかし」のある部分を抜き出して、それを、彼らの偽りのあかしに影響を与えるために、誤謬の骨組の中に置くのです。彼らの使命が誤りであることが明白になった時、「あかし」も彼らの誤りの仲間であるとされ、同じ非難を受けるのです。これらが、私の承諾なしに、個人的手紙から抜すいされた「あかし」であることを知らない、世の人々は、これらを見て、私の働きが、神の働きでも、真理の働きでもなく、偽りの働きである証拠だと、とるでしょう。神の働きをこのように不評判にする人々は、彼らがなしている働きのために、神の前で答えなければならなくなるでしょう。

レビュー・アンド・ヘラルド・1893年9月5日、
「牧師へのあかし」、47ー52ページに再録。


第四章 天の任命を受けた牧師の働き

神は一つの教会を持っておられ、そして教会には神が任命された牧師の働きがあります。
「そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストの体を建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。」
神はご自身が任命された器を持っておられます。また迫害、闘争、暗黒に生き抜いてきた教会を持っておられます。イエスは教会を愛し、ご自身を与えられました。神は教会に力を与え、洗練し、高貴にし、高められます。それゆえ教会は、堕落した世の真中にあっても立つことができるのです。神に任命された人は、教会がサタンの好計に陥らないで、人々の前で神の栄光を高めるために存立すべく見張りに選ばれたのです。教会と余は一層はげしい闘争をするでしょう。思想と思想、主義と主義、真理と誤謬が争います。間もなくその危機が訪れます。すでに始まってもいます。経験のある人々は神が任命された働きをします。そして、彼らは神の前に報告しなければならない者として魂を注意深く見守ります。
教会をバビロンだと言い広める、誤りの使命を伝える人は神が任命された働きをおろそかにし、組織に反対し、マラキによって語られた、神の宝庫に什一をたずさえる神の明白な戒めに反対するのです。しかも、彼らが主の真理の使命を前進させるために神が選ばれた人々に警告する働きを持っていると考えてごらんなさい。これらの働き人は、神のために、そのみ国のために効果ある働きをしてはいないのです。むしろ、すべての義の敵がしていると同じ働きをしているのです。危機の日に神の働きを前進させるために神が定められた方法と手段に反対して立ち上がる人から、神の任命された器の性質、職務、力について、非聖書的な見解を撤回させなさい。
私が、今書いている事柄を全部理解させなさい。神と共労する人は、神の器です。彼ら自身に本質的な恵みや聖潔があるわけではありません。彼らが天のみ使いに協力する時にのみ、持つのです。彼らは土の器にすぎません。その中に主の真理の宝を神は置かれているのです。パウロは植え、アポロは水をそそぎます。しかし成長させるのは神だけです。
神は御自身が任命された器を通して語られます。どんな人も、また人の集合体も、主が選ばれた使命者の唇からでる、神の言葉の使命を聞くのを拒んで、神のみ霊を軽んじることがあってはなりません。神の使命を聞くことを拒むことによって、人は自ら暗黒の部屋に閉じこもるのです。彼らは大いなる祝福から自分自身の魂をしめ出します。主が任命された器を尊ばないことによって、キリストに帰せられるべき主の栄光をかすめるのです。

偽りの教師に注意しなさい

神は混乱の創始者ではなく、平和の創始者です。しかし、サタンは熱心な、眠ることのない敵です。彼は人間の心に働き、彼の毒麦の種をまく土地を探しています。もし、彼の働きのできる人間を見つけたら、彼は種々な思いつきや、偽りの説を吹きこんで誤ちを熱心に主張するようにさせます。真理は人を回心させるだけでなく、それを受ける人々を清める働きもします。イエスは偽りの教師に注意するように警告されました。私たちの働きの当初から、新しい、人を驚かすような説を主張する人々が時々起こりました。しかし、真理を信じていると主張する人々が、経験のある人々のところに行き、よく教えをきき、謙遜な精神で神の言葉に照らし、真理の光で自分の説を吟味し、勤勉な聖書研究者である兄弟たちの助けをかり、同時に神に祈り、それが神の道にかなったものであるかどうか、あるいは自分を導いているのがサタンの誤った道でないかどうかを尋ねるならば、彼らは光を受け、補鳥者の網から逃れるでしょう。
私たちのすべての兄弟姉妹は、主の来臨に関するみ言棄の成就、あるいは、特別な意昧で、主がなされた他のみ約束の成就について、特定の時を定める人に注意しなければなりません。
「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。」偽りの教師も神の働きに熱心であるかのようにみせかけ、世と教会に彼らの説を宣伝するのに金銭を費やすかも知れません。しかし、その説には、真理と誤謬が混じっているので、その使命は偽りで、人々を偽りの道に導きます。彼らに対処し、反対しなければなりません。それは彼らが悪い人だからではなく、彼らが偽りの教師であり、真理の切り株の上に、偽りを置こうと努力しているからです。
人々の神聖な信仰を富ませる宝石のような真理が納められている大殿堂があるにもかかわらず、わざわざ謬論を作り上げるのに、このような労苦を重ねるとは、まことに遺憾なことです。彼らは、真理を教えないで新奇なものに想像力をめぐらせ、人々を真理の土台にみちびくために神が用いておられる働き人と一致できなくなります。彼らは、心と思いをひとつにするようにといわれてきたことをすべて捨てさり、主の祈りを無視し、主が祈られた一致をも不必要だとし、主が天父とひとつであるように、主に従うものがひとつになる必要もないと言うのです。彼らは軌道からはずれ、エヒウ王のように、主に対するわたしの熱心の模範に従いなさいと呼びかけます。
もし彼らの熱心が、これまで熱心と重荷を負って働いてきた兄弟たちと同じ線の働きをし、兄弟たちのように失望や障害を乗りこえるような働きをするのならば、彼らにならってもよいでしょうし、また神は彼らを受け入れられるでしょう。すばらしい光の宣教を始めながら神が導かれる器から離れるならば、非難されるでしょう。これはコラ、ダタン、アビラムがとった道です。彼らの行為は他を警告する目的で記録されているのです。私たちは彼らがしたようなことー神が働きの責任を与えられた人々を、非難、告発するようなことをしてはなりません。
セブンスデー・アドベンチスト教会はバビロンであると言い広めて来た人たちは、「あかし」を彼らの主張を支えるものとして利用しました。しかし、なぜ、彼らは長年の間、私の使命の重荷となって来た、教会の一致を示さなかったのでしょう。なぜ彼らは天使の「団結しなさい。団結しなさい。団結しなさい。」という言葉を引用しなかったのでしょう。「一致すれば強められ、分裂すれば弱められる」という忠告と原則を、彼らはなぜ繰りかえさなかったのでしょう。彼らが受けた使命というのは教会を分裂させること、また、真理の敵の前で教会を恥ずかしめることだったのでしょうか。このような使命には、教会を一致によって完全ならしめることをさまたげる、大いなる偽り者の、たくみな働きがかくされていることがわかります。これらの教師は自分自身の燈火をともし続け、自分の独立した判断で行動し、偽りの意見や説で真理を妨害します。彼らは兄弟たちの忠告を拒絶し、まさにサタンが彼らに望んだところーバランスのとれない心を持つまで自分自身の道を進むのです。
私はあらゆる形でなされるサタンの働きに注意するように、兄弟たちに警告します。神と人の大いなる敵は、魂を欺くのに、今日成功しています。そして、彼らの資力や能力は有害な手段に投じられています。彼らの金銭は現代の真理をひろめるために、用いることのできたはずのものです。しかし、真理に土台を置かない意見をひろめるために使われてきたのです。

もうひとつの例

1845年、ある男がキリストの名によって、マサチューセッツ州で同じような働きをしました。彼は誤った教理を提示して、彼の説に「あかし」からの文章や抜粋をおりこみました。そして、彼の説を一枚刷りの「デイ・スター」誌に公刊しました。数年間この出版物は有害な結果を生じました。しかも、全体的には彼の働きを少しも支えていない「あかし」に非難が集まりました。私の夫は彼に手紙を書き、わたしたちが反対している事柄を支持するために、なぜ彼が自分の言葉に「あかし」を織り込んだのかを尋ね、彼の出版物が及ぼした影響を正すように求めました。彼は、そうすることを、きっぱりと拒否しました。そして、彼の説は真理であると言い、幻は彼の見解を確証すべきであったし、また事実、支えてきたのだが、私が彼の説を明白にする事柄を書くのを忘れているのだともいいました。
働きの始めから、次々にこの種の働きがあらわれました。私はこれらの偽りと戦う費用をこしらえ、困難にたちむかわねばなりませんでした。彼らは自分の説を公刊し、多くの魂を欺いてきました。しかし、神が羊を主の牧場で守ってくださるように祈っています。

レビュー・アンド・ヘラルド・1893年9月12日号、
「牧師へのあかし」52ー53ページに再録


第五章 神はひとつの教会を持っておられる

私は真理を信じていると主張する人々に、兄弟たちと一致して歩むようにすすめます。世の中に、私たちは極端論者で、各自が各様の主張をする一致のない者たちであると言わせる機会を与えるようなことのないようにしなさい。意見の相違をさけましょう。壁に破れ口をあけようとする人にならないで、むしろ破れ口を繕う人となるように注意しようではありませんか。私たちは、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰をもち、終末時代に義の標準を高める残りの民に、与えられた言葉を成就させようとしている人々に反抗しないように気をつけましょう。
神は特定の民である、ひとつの教会を地上に持っておられます。それは何ものにも劣らず、真理を教え、神の律法を擁護する能力がどんな人たちにもまさっています。神は天が任命された器―主が導いておられ、今日に対する責任と熱意を持ち、神のみ心がこの世で前進するように、天の器と協力する人々を持っておられます。これらの選ばれた人々と一致し、最後には、聖徒の忍耐を持ち、神の戒めと、イエスを信じる信仰を持つ人々の中にいるようになるでしょう。

書簡

次のものはS兄弟に宛てられた手紙です。
ニュージーランド・ナピア 1893年3月23日

S兄弟へ
「一筆あなたにしたためます。私はあなたがとってこられた主張に組みすることができません。といいますのは、私は主から、そのような主張が、誤った人たちによって、なされていることを示されたからです。パウロはこの点に関して「御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう」と警告しています。
私の兄弟よ、私は、あなたが、セブンスデー・アドベンチスト教会はバビロンであり、救われたいと望む者はその教会から出なければならない、と言っているということを知りました。この点で、悪魔にまどわされたのは、あなただけではありません。過去四十年間に、次々に、主から同じ使命を与えられたと主張する人々があらわれました。しかし、私はあなたに対し、私が今まで彼らに対し、あなた方が言い広めている使命は、教会の内に混乱を造り出そうとするサタンのまどわしのひとつだと言ってきた、同じことを申し上げます。
私の兄弟、あなたは確かに道をはずれています。第二天使の使命は、バビロン(諸教会)に向けられたもので、その倒壊を告げ、そこから出るようにと人々に呼びかけるものでした。これと同じ使命が、もう一度宣伝されるのです。「この後、わたしは、もうひとりの御使が、大いなる権威を持って、天から降りて来るのを見た。地は彼の栄光によって明るくされた。彼は力強い声で叫んで言った『倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そして、それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣くつ、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣くつとなった。すべての国民は、彼女の姦淫に対する激しい怒りのぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と姦淫を行い、地上の商人たちは、彼女の極度のぜいたくによって富を得たからである。』わたしはまた、もうひとつの声が天から出るのを聞いた。『わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ。彼女の罪は積り積って天に達しており、神はその不義の行いを覚えておられる』」とあります。
私の兄弟よ、もし、あなたがセブンスデー・アドベンチスト教会はバビロンであると教えているならば、あなたは誤っています。神はそのような使命をあなたに与えられてはいません。サタンは自分の目的を達するため、あらゆる人の心を利用します。そして、偽りの説を創始し、突然誤った道にそれるようにしむけます。そして、彼は偽りの興奮を造りだし、魂をこの時代の真の問題からそらせてしまうのです。私はある人々があなたの使命によって、欺かれるのではないかと考えます。なぜなら、彼らは好奇心が強く、なにか新しい事柄を望んでいるからです。
私はあなたが敵のそそのかしによって、とにかく、欺かれたことを思うと本当に悲しくなります。なぜなら、私はあなたが主張している説が、真理でないことを知っているからです。あなたの持っている考えを広めることによって、あなたは自分自身を大いにきずつけ、また他人をもきずつけます。どうぞ、このような誤った言葉を支持するために「あかし」を誤解し、ゆがめ、悪用しないで下さい。多くの人が、この領域に入って大きな害を与えました。何度も何度も、他の人たちが熱心にこの使命を広めようとしましたが、それが真理でないことが示されてきました。
あなたは、また、什一を払う必要はないと言い広めているように思われます。私の兄弟よ「足からくつを脱ぎなさい」あなたは聖なる地に立ち入っているのです。什一を払うことについては主が言われたのです。主は「わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたに注ぐか否かを見なきいと、万軍の主は言われる」のです。しかも、主は什一をたずさえる人々に祝福を宣言される一方、それを拒む人々に災を宣言されるのです。私はごく最近、この問題について主より光を受けました。多くのセブンスデー・アドベンチストは什一と献金において神のものを盗んでいます。それは、マラキが述べている通りのことをはっきりと私にあらわされたのです。ですから、たとえ心の中であっても、什一や献金を差しひかえようと考える人は、主からでたものといえるでしょうか。私の兄弟よ、あなたは、どんな道を歩いているのですか。もう一度、真直な道にもどってください。
終りは近いのです。しかし、敵にあざむかれて、あなたでも、だれでも、キリストの来臨の時期を設定するなら、そのために過去に魂を滅ぼしたのと同じ悪の働きをしていることになるのです。
あなたがキリストのくびきを負うならば、主の重荷を支えるならば、あなたは、神の僕たちが労苦している事柄―キリストとその十字架の宣教という同じ戦線の中に、あなたがしなければならない多くの事柄を知るでしょう。しかし、キリストの来臨の年、日、時間を発表する使命を広めようとする人々は、そのくびきを捨て、主が与えられなかった使命を言い広めるのです。
神は地上に、神の戒めを守っている、主が選ばれた人々のひとつの教会を持って知られます。主は分派や、個人ではなく、ひとつの民を導いておられるのです。真理は清める力です。しかし、戦闘の教会は勝利した教会ではありません。よい麦の中に毒麦があります。「僕たちが言った。『それを抜き集めましょうか。』主人は言った『いや、毒麦を集めようとして、毒も一緒に抜くかも知れない。育つままにしておけ』」福音の網はよい魚だけでなく、悪い魚をも同じように引き上げます。主だけが主のものを知っておられます。
主と共に謙遜に歩むことは、私たち個人の責任です。私たちは、いかなる変わった新しい使命をも求めてはなりません。また神に選ばれて、光の中を歩もうとしている人々を、バビロンを構成する人たちだと考えてはなりません。堕落した諸教派の教会がバビロンなのです。バビロンは誤りのぶどう酒である有毒な教理を育成してきました。この誤謬のぶどう酒は、霊魂不滅とか、悪人の永遠の責苦、ベツレヘムの生誕に先だつキリストの先在の否定、神が聖とされ、清められた日よりも週の第一の日を高め、支持しようとするような、こうした偽りの教理でできているのです。これらの似たような誤りは、多くの教会によって世に示されてきました。それによって、「その不品行に対する激しい怒りのぶどう酒を、あらゆる国民に飲ませた」という聖書の言葉は成就したのです。それは偽りの教理によって作られた怒りです。世の王たちでも大統領たちでも、その不品行の怒りのぶどう酒を飲むならば、誤ちに同調しない人々や偽りの安息日を高揚するサタン的異端に同調しない人々に怒りをもやし、神の記念を足の下にふみにじらせようとするのです。
地上に落とされた天使たちは悪人との連合を作ります。この時代に、反キリストが真のキリストとして現われます。そして、神の律法はこの世の国々で完全に廃されるようになります。神の聖なる律法に対する反逆は将に熟そうとしています。しかし、この反逆の真の指導者は光の天使を装っているサタンです。人々は欺かれ、神の座にまで彼を高め、彼を神聖なものとするのです。しかし、全能者が干渉されます。そしてサタンの高揚に一致してきた背教の教会に対して、宣告が執行されるのです。『それゆえ、さまざまの災害が、死と悲しみとききんとが、一日のうちに彼女を襲い、そして、彼女は火で焼かれてしまう。彼女をさばく主なる神は、力強いかたなのである」のです。

レビュー・アンド・ヘラルド 1893年9月12日、162ページに再録。


第六章 教会に対する神の愛

他の書簡

S兄弟を助けていた人に宛てられた通信で、その一部分の引用
ニュージーランド・ウェリントン 1893年6月11日

C兄弟へ
主はあなたに、セブンスデー・アドベンチストをバビロンと呼んだり、神の民を、それから出るように、招いたりする使命を与えられませんでした。この問題について、あなたが挙げるかも知れない理由は、私には重要なものに思われません。といいますのは、主が私に、このような使命に反対する明確な使命を与えられたからです。
私は決して、あなたの、正直さや、真面目さを疑ったりしてはいません。私はこれまで・セブンスデー・アドベンチスト教会はバビロンであると告発してきた人々に、それぞれ異なった時に手紙を書き、彼らが真理を扱っていないことを告げてきました。あなたは、私が人々に影響されて、偏見をもっているのだと考えています。もし私が、そうした状態にあるとすれば、私は神の働きを依託されるのにふさわしいものではありません。しかし、この問題は、別の時に、これを似たようなことについて、セブンスデー・アドベンチストに使命をもっていると、ある人々が主張した時に、「彼らを信じてはならない」「わたしがつかわさなかったのに、彼らは走った」という言葉が私に与えられたときに、私の心に示されたのです。
神は、ひとつの民を導いておられます。主は地上で、ひとつの民、ひとつの教会を選ばれ彼らに、主の律法を託きれました。主は彼らに、聖なる信頼と、世に与えられるべき永遠の真理をゆだねられたのです。主が彼らを譴責し、矯正されるでしょう。ラオデキヤ人に対する使命は、偉大な光を持ち、しかも、その光の中を歩いて来なかったセブンスデー・アドベンチストに適用されます。偉大な告白をしながら、聖なる指導者に従っていかないならば、彼らが悔い改めないかぎり、主の口からはき出されるでしょう。セブンスデー・アドベンチスト教会をバビロンだと発表し、神の民にそれから出るようにと呼びかける使命は、天の使命者から出たものでも、または、神の霊の感動を受けた人間の器から出たものでもありません。
聖なる真の証人は、「あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。勝利を得る者にはわたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である」といっておられます。

私は叱ったり、懲らしめたりする

イエスは、教会員各自が主に扉を開くなら、入って彼らに最も富んだ祝福を与えようとしておられます。主は彼らを一度もバビロンと呼んだり、出て来なさい、と彼らに言われたことはありません。しかも、主は「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲しめたり(譴責と警告の使で)する」といわれます。私はこれらの譴責に無知ではありません。私は主の霊が私に警告を与えるように強いられたので、それをし、主が譴責の言葉を私に与えられたので、譴責をしてきました。私は神が教会のために私に与えられた、すべての勧告を発表するのを避けたことはありません。私は主の恐れと愛をもって申します。私は主が、教会から離れた人(バックスライダー)たちのすべてに対して愛を持っておられ、彼らを回復し、癒すあわれみを持って知られることを知っています。主は主の教会がなすべき働きをもって知られます。彼らはバビロンと宣言されるべきではなく、地の塩、世の光として宣言されるべきです。彼らは、この終末時代に生きた使命を宣べ伝える生きた使命者であるべきです。

教会は破壊されるべきではない

私は繰り返して、主はいかなる使命者によっても、神の律法を守る教会をバビロンとは呼ばれないことを、申します。よい麦の中に毒麦のあるのは事実です。しかし、キリストは、まず最初に主の使を送って毒麦を集め、それを束ねて火で燃やすが、よい麦は集めて蔵におさめるといわれました。私は主がその教会を愛しておられることを知っています。それは解体されたり、ばらばらな分子にこわされたりしてはならないものです。それには少しも首尾一貫したものがありません。そのようなことがよいという証拠も少しもありません。この誤った使命に注意を払う人、他人に影響しようとする人はあざむかれており、さらに進んだまどわしを受ける準備をしているのです。そして、彼らは完全に失敗するでしょう。ラオデキヤ人の教会への使命を適用されてしかるべき根拠がいくつもあるにもかかわらず、傲慢な、ひとりよがりの、強情な不信仰、自分の主張をひっこめるのを拒絶するような人々が、教会員の中に、いくらかはいます。だからといって、それは教会をなくしてしまえという理由にはならないのです。毒麦もよい麦も両方とも収穫のときまで成長します。そののち、天使が分ける働きをするのです。
私はセブンスデー・アドベンチスト教会は、新しい意見を受けることについてまた、大きな光を持っていると主張する、人たちを受け入れることについて慎重であるように警告します。彼らの働きの性格は糾弾し、壊すことです。信徒は教会に「団結しなさい」といった天使の声に注意すべきです。あなたがたの力を結合させなさい。兄弟のように愛しなさい。なさけ深く、おもいやりを持ちなさい。神はひとつの教会を持っておられます。キリストは「黄泉の力もそれに打ち勝つことはない」と宣言されました。主が送られる使命者たちは、天の信任状を持っています。

レビュー・アンド・ヘラルド・1893年9月19日


第三部 勝利した教会

主の教会に対する神の愛の保証は、早くも1893年に提示されていますが、その後も、何回も何回も繰返されています。エレン・G・ホワイトが生涯を閉じる直前、主は、セブンスデー・アドベンチスト教会の勝利を主の民に保証されました。第三部のこれらの繰返された記述は主に、エレン・G・ホワイトの手記のファイルの中からと、教団の定期刊行物に発表された記事から、集められ、この最終部を構成しています。(エレン・G・ホワイト著作刊行委員会)

第一章 何回も繰り返された保障

天父は御自身のみ子を愛されるように、今日、御自身の民を愛しておられます。いつの日か、私たちは主と顔と顔を会わせて、お会いする特権を持つでしょう。

MS・155、1902年 (1902年9月15日)

教会は、たとえ弱く、欠点を持っていても、キリストが御自身の最高の関心を与えられる、地上の唯一の対象であることを記憶しているべきです。主は絶えず同情をもって教会をみつめ、聖霊によって教会を強めておられます。

MS・155・1902年 (1902年11月22日)

神の保護を信頼しなさい。神の教会は教えられねばなりません。たとえ弱く、欠点があっても、教会は主の最高の関心のまとです。

書簡279、1904年 (1904年8月1日)

優利な立場に立って

教会は活動を増大し、領域を拡大すべきです。私たちの海外宣教は拡張されるべきです。私たちは私たちの境界を広げねばなりません。
私たちの明確な性格を維持する努力として、熱心な検討がなされてきましたが、私たちは聖書的クリスチャンとして、立場を進めて来ました。主を恐れることは知識の始まりであることを記憶しなさい。私たちは、神の救いの恵みが、私たちを各段階で教えてくださることを祈りながら、熱心に働かねばなりません。主のみ心を明確に知ることを求め、それに調和した歩みををしなければなりません。絶えず主を知るように求め続けていきましょう。主を正しく知ることが永遠の生命なのです。

書簡170、1907年 (1907年5月6日)

神の霊が、民としての私たちに臨在された、過去50年間の証拠は、敵の側に現在、自分たちを置き、神の使命に対抗するために立った人々の試みに耐えることができます。

書簡356・1907年 (1907年10月24日)

私の兄弟方よ、あなた方のすべての人がこれを充分に理解できなくても、私はこれらのことを、あなたがたに書きます。神の目が、主の民をみつめていることを、私が信じることができなかったならば、私は同じことを何回も何回も繰返して書く勇気を持たなかったでしょう。神は、導き教えておられるひとつの民を持っておられます。

書簡378・1907年 (1907年11月11日)

私は全世界にいるセブンスデー・アドベンチストに、神は私たちを、民として、ご自身の特別な宝として、召されたことを伝えるように指示されました。主は、地上の主の教会が、時の終りまで、み霊と、万軍の主の勧告に完全に一致するように定められました。

書簡54・1908年(1908年1月21日)

特別な意味で、セブンスデー・アドベンチストはものみ、光を掲げる人、として世に置かれて来ました。滅びゆく世にたいする最後の警告が彼らに依託されました。彼らに、神の言葉からのすばらしい光が輝き出ています。最も厳粛なことがら、― 第一、第二、第三天使の使命の宣教の仕事が彼らに与えられました。これ程大切な働きは他にありません。他のことに彼らは熱心になることは許されていません。
人間に依託された最も厳粛な真理が、世に述べ伝えられるために私たちに与えられて来ました。これらの真理を述べ伝えることが、私たちの仕事です。

あかし・第9・19ページ (1909年に最初に出版されたもの)

この世において、教会ほど神が大切に思っておられるものはありません。主は主を求める者を熱心に守護されます。サタンの僕たちが、主の民からその権利を奪い取ろうとすることほど、神の不興をかうものはありません。主はその民を見捨てられませんでした。サタンは民の犯した誤ちを指摘します。そして、彼らが神から離れてしまったかのように信じこませます。悪の天使たちは、あらゆる方法で、罪に勝利しようと努力している人々を失望させようとします。彼らは民に、彼らの過去の無価値さを示し、自分たちは、みこみのないものだというように思わせます。

書簡・136、1910年 (1910年11月26日)


第二章 わが教会の名称

私は神の残りの民が、一つの名称を持つことについて示されました。ひとつのグループは、クリスチャンと名のる、大きな団体を作っていました。彼らは神の律法を軽視し、法王の定めた制度を拝していました。彼らは週の第一日を主の安息日として守っていました。いま一つのグループは、数こそ少ないものでしたが、偉大なる律法の賦与者を拝していました。彼らは第四条を守っていました。彼らの信仰の特に顕著な点は第七日を遵守し、われらの主の天からの現われ(再臨)を待ち望んでいる事でした。
私たちの持ち得る名で、私たちの告白、と信仰の表明と私たちを特別な民として特徴づけるのに、よくあったふさわしい名は他にはありません。セブンスデー・アドベンチストいう名は、プロテスタント世界にたいする絶えざる譴責なのです。ここには、神の礼拝者と獣を拝し、そのしるしを受ける者とを画する一線があります。神の十戒と獣の要求との間に大争闘があります。聖徒たちは十戒の全条を守るので龍は大いなる怒りをもって戦いをいどみます。もし、彼らが標準を低め、信仰の独特さを捨てるならば、悪魔は平穏でいます。しかし、彼らは悪魔の怒りを呼び起こします。それは、彼らが標準を高めるようにつとめ、法王制を礼拝するプロテスタント世界に反旗を立てるからです。
セブンスデー・アドベンチストという名は、私たちの信仰の真実の姿を全面に掲げています。そして考える人の心に確信を与えます。主の弓からはなたれた矢のように、神の律法の違反者を射ます。そして、主イエス・キリストにある信仰と神に対する悔い改めに導きます。
これまでに起こった熱狂者で、他の人々を別の道に導くことができるように、自分の感情をおしかくそうとした者のほとんどは、彼らが神の教会に属すると主張することが示されました。しかし、そのような名称は直ちに疑惑を呼ぶでしょう。なぜなら、それは甚だ不合理な誤りをかくすために用いられるからです。この名称は、ばくぜんとしていて、神の残りの民には全くふさわしくありません。それは、私たちが信仰をかくしたいと望んでいるように推測させるものです。

教会へのあかし第一巻・223、224ページ(1861年、初刊)

私たちはセブンスデー・アドベンチストです。私たちはこの名を恥じるでしょうか。私たちは、否、否と答えます。私たちは恥じません。それは主が私たちに与えられた名称です。それは諸教会の試みとなる真理を指摘しています。

書簡110・1902年 1903年7月7日執筆

私たちはセブンスデー・アドベンチストです。この名称について、私たちはけっして恥じることはありません。ひとつの民として、私たちは真理と義のために堅固な立場を持たねばなりません。こうして私たちは神のみ名をあらわします。私たちは危険から救出されたものであって、危険にさらされ、傷つけられるものではありません。そのためには、私たちは、信仰の創始者であり完成者であられるイエスを仰ぎみなければなりません。

書簡106、1903年 (1903年5月20日執筆)


第三章 世界総会

いかなる人の判断も他のひとりの人の判断に追従させてはならないということが示されました。しかし、神が地上に持たれる最高の権威である世界総会の判断がくだされた時には、個人の独自の考え、判断を主張してはなりません。それに従えさせなければなりません。

「教会へのあかし」第三巻・492ページ 1875年初刊

私は主が私にこの国(オーストラリア)に来るように望まれたという光は一すじも受けませんでした。私がこれまで権威を支持してきた世界総会の声に従って来たのです。    

書簡・124、1896年(1896年8月9日執筆)

ひとりの人の考え、または、数人の人の考えに、働きを支配し、どんな計画に従うべきかを示す充分な知恵と力があると思ってはなりません。しかし、世界総会において、すべての分野から集まった兄弟たちの判断がくだされたときは、個人的な自由、個人的な判断を頑強に主張しないで従わせるべきです。働き人は、だれひとりとして、組織全体の決定に反対して独自の主張を堅持することを、決して美徳であると思ってはなりません。
教団全体の運営の任にあたっている少数の首脳部が、時々世界総会の名前で、賢明でない計画を実行し、神の働きを抑制するようなことがあったとき、私はもはや、これらの少数の人によって代表された世界総会の声を、神の声として認めることはできないと言ったことがあります。しかし、これは、正式の指名を受け、働きの全分野を代表する人々から成る世界総会の決定が尊重できないということではありません。神は、世界のすべての地域から選出された神の教会の代表者達が世界総会に会するとき、総会が権威をもつことをお定めになりました。神のみわざの進歩と発展を計画するために召集される世界総会の判断や態度について神が教会にお与えになっている権威と影響力をひとりの人、あるいは少数の人々の考えや判断にすべて一任してしまうことは、一部の人が陥りやすいあやまちです。
神が教会にお定めになったこの権能がひとりの人に全面的に委ねられ、こうして彼が他人を裁く権威をもつようになる時、真の聖書的秩序は崩れてしまいます。このような人の心に働きかけるサタンの力は非常に巧妙で時には圧倒的なものです。なぜなら敵はこのような人の心を通して多くの人々に影響力を及ぼそうと計るからです。私達はひとりの人物や少数の人々をあがめるのではなく、教会の組織化された最高の権威を尊ぶようにしましょう。

教会へのあかし・第9巻・260、261ページ(1909年・初刊)


新しい組織はない

私たちが最終の働きに着手する時は、過去の歴史が顧みらるべきであると主はいわれました。この最終時代に主が与えられた真理はどれも、世界に宣言されるべきものです。主が建てられた柱はどれも強められねばなりません。私たちは神が建てられた土台から今になって、おりることはできません。私たちはどんな新しい組織に入ることもできません。なぜならそうすることは真理にそむくことになるからです。

覚書的小冊子、教会、第一 (1905年12月24日執筆)

神がみちびいている

働きが成功しないのではないかと恐れたり、疑ったりするには及びません。神が働きの頭です。主がすべてを秩序だてられました。もし、働きの上層部で調整を必要とする問題があるならば、神がそれに臨まれ、すべての誤りを正しくするように働かれます。神は神の民が安全に港に入れるように高貴な舟を導いておられるという信仰を持とうではありませんか。

レビュー・アンド・ヘラルド・1892年9月20日


第四章 1913年の世界総会にあてられた使信

カリフォルニア、『エルムスヘブン』衛生病院にて、1913年5月4日 総会中、最初の安息日の、午後の集会で、W・C・ホワイト長老によって読まれたもの
世界総会に集まられた方々へのご拶挨として

親愛なる私の兄弟方

「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。ほむべきかな。わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神、神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。」
「しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。わたしたちは、救われる者にとっても、滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである。」
「わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。
わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。『やみの中から光が照りいでよ』と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。」
「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」

希望と勇気

希望と勇気に満ちた精神を内に持つことは、世界総会に出席している私たちの代議員諸氏の特権です。私の兄弟方よ、救い主は色々な方法で御自身をあなたがたに現わしてこられました。主はあなた方が遠く離れた地で働いている時も、自分の母国で働いている時も、主の御座から出る太陽の光を、あなたの心に満たされました。主は見える危険、見えない危険から、あなたがたを守ってくださいました。そして、現在、あなたがたはもう一度、総会で兄弟方に会っています。主にある喜び、主の絶えざる恩寵の知識を喜ぶ特樺を、あなたがたは持っているのです。主の愛が、心と思想にとどめられているようにしましょう。へとへとに疲れたり、悩み疲れたり、消沈したりしないように注意しましょう。あなたの目を暗い面と失望させる事柄から離しなさい。そして私たちの偉大なる指導者イエスを仰ぎみましょう。イエスの注意深い監督の下で、私たちが生涯と私たちの一切をささげている現代のみわざは、輝かしい勝利を約束されているのです。
私たちの代議員が総会中に持ち続ける態度は、代議員自体は勿論、すべての伝道地にはっきりとした影響を与えるでしょう。兄弟方よ、イエスが心に宿っておられ、支え、力づけ、慰めてくださることを知りましょう。あなたがたが毎日、聖書を豊かに与えられ、世に広められている使命の重要性と範囲について広い視野を持つことが、あなたがたの特権です。主は主の律法から、すばらしい事柄をあなたがたに現わそうとしておられます。主の前に心の謙遜を求めましょう。私たちの住む時代を理解できるように、主の目的を完全につかめるように、救霊の働きをもっと効果的にできるように、熱心に祈りなさい。
しばしば夜中に、私は、責任ある地位にある兄弟たちに、もっと完全に、主を知る努力をするように、すすめるように命じられます。私たちの働き人が生存する時代の重要性を理解する時、私たちは主の側に立つように決心するでしょう。そして彼らは真理にあって、主と共に働く者となるでしょう。彼らが主の働きに心と魂を集中する時、彼らはすでに得た経験よりも、はるかに深い経験を持つでしょう。そして、それはすべての罪に勝利しようと望む者に必須なことなのです。
間もなく地上におころうとすることを考えるのはよいことです。浪費したり、勝手なことをしている時ではないのです。私たちの生存している時代が私たちの思想に厳粛な影響を与えないならば、一体何が私たちの心を感動させることができるでしょう。私たちがいまだかつて見たことのない、さらに純粋で聖なる働きを聖書は求めていないでしょうか。

献身を新たにせよとの招き

明解な理解力を持つ人が今日必要とされます。神は徹底的な改革の働きを導くために、聖霊の支配を受けることを望んでいる人々を招いておられます。私は私たちの前にある危機を見ています。そして主は働き人に戦線に来るように要求しておられます。すべての人が神に対して、過去よりも、さらに深い真実の献身の立場に、今、立つべきです。
1909年の世界総会の会期中、出席者の心の中で一つの働きがなされるべきでしたが、それがなされませんでした。自分の心をさぐるために、何時間も費やすべきでした。そうしたら集会に出席していた人々の心の中の荒地がたがやされたはずです。それによって、悔い改めと告白のうちに、果たさねばならなかった働きを理解する洞察力が与えられたはずです。しかし、罪を告白し、心から悔い改め、明確な改革をする機会が与えられても、徹底した働きがなされませんでした。ある人々は聖霊の感化を感じて応答しました。しかし、すべての人々がその感化に自分をゆだねたわけではありません。ある人々の心は禁じられた領域に走っていました。集まったすべての人たちの中に、心の謙遜が現わされたならば、すばらしい祝福がいただけたはずです。
 その集会が終わった数か月間、私は重い重荷を負いました。そして、責任の地位にある兄弟がたの注意を、主が私に明確に教えられたことに向けるように勧めてきました。最後に総括的任務にたずさわっている責任のある立場の人々が、多くの祈りと、与えられた種々の使命の注意深い研究の後に、信仰によって召された働きー彼らが充分に理解できなかった働き、に着手することになりました。そして、神を恐れて前進した時、彼らは豊かな祝福を得ました。

光の中を歩むことの結果

私はある人々の生活が、自分の選んだ道でなく、主の道を、信仰によって進むことを選んで、すばらしい生活の改変が起こったことを見て、私の心は非常に喜びました。これらの責任のある兄弟たちが、偽りの光の中で問題を見つづけていたならば、彼らは働きをみじめに阻害するような事態を生みだしたに相違ありません。しかし、彼らが知らされた教えに注意し、主を求めたので、神は彼らを全き光に導かれました。そして、受け入れられる働きをし、霊的改革をすることができるように、神はしてくださいました。
主の牧者たちの前に、道を備えるために、主がみ手をおかれるとき、主の示されるところに従うのは彼らの義務です。はっきりと心を定めて主の導きに従う人々を、主は捨てたり、不安な状態においたままにはなさいません。

確信のあらわれ

兄弟方よ、「私は、あなたがたすべてについて確信しているので喜んでいます。」そして、たとえ、私が、地上の主の働きの発展に関係のある重要な手段に対して、ある人々がとっている態度に深く心配する時でも、私は全伝道地の働き人に強い信仰を持っています。そして、彼らが互いに集まり、主の前に謙遜になり、改めて、主の奉仕に献身するとき、彼らは主のみ旨を行うことができるでしょう。今でも、正しい光の中でも、ものごとを見ていない人々がいます。しかし、これらの人々も共労者をその目で見て学び、この時に主を熱心に求め、自分の意志を全的に神の意志にゆだねることによって、重大な誤ちをさけるようになるでしょう。
私は最近、夜中に、私の前を通り過ぎた光景に深く感動しました。偉大なる運動―リバイバルの働きーが多くの場所で起こっているように見えました。私たちの民は列を作って進み、神の召しに応答していました。私の兄弟方よ、主は私たちに語っておられます。主のみ声に耳をかたむけようではありませんか。自分のともしびをととのえ、主の来臨を待ち望む人のように行動しようではありませんか。今こそ、光を掲げ、行動を起こす時です。
 兄弟方よ、「それゆえ、私はあなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、できる限り、謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互いに忍びあい、平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。」

世界総会公報・1913年5月19日33、34ページ


第五章 主にある勇気

これは1913年の世界総会会議に宛てられたエレン・G・ホワイトの第二の使信で、5月27日火曜日の朝、総理、A・G・ダニエルスによって、総会の席で読まれたものである。

最近、夜中に、私の心は、もし主が私たちが信じているように間もなく来られるのならば、私たちは人々の前に真理を示すのに、過去幾年間働いてきた以上に、もっと活動的に働かねばならないという思いを聖霊によって印象づけられました。
これに関して、私は1843年と1844年の再臨信徒の活動を思い出します。あの当時、多くの戸毎訪問がなされ、疲れを知らぬ努力をもって、神の言葉に語られている事柄を人々に警告したものでした。私たちは第一天使の使余を忠実に言い広めた人々よりも、もっと大きな努力をしなければなりません。私たちは、急速に地上歴史の終わりに近づいています。そして、本当にイエスの来臨が近いことを信じるならば、私たちは、かつてないほど働きに目ざめるはずです。私たちは、人々に警告をひびかせるよう命じられています。そして、私たち自身の生活の中に、真理と義の力を示さなければなりません。世界は、破られた主の律法について、その偉大な賦与者に会わねばなりません。違反から違法に帰る人たちだけが、許しと平安の望みを持つことができます。
私たちは、「神の戒めとイエスを信じる信仰」と書かれた旗を掲げねばなりません。神の律法に従うということは、重大な問題点だからです。無視してはならないものです。私たちは教会員を奮起させねばなりません。告白をしていないものに、天の律法を見せ、従わせねばなりません。私たちはこの律法を拡大し、尊いものにしなければなりません。
キリストは私たちに、真理の種をまき、この地上歴史の閉幕の時代に住む人たちによってなされねばならない働きの重要性を、わが民に訴える働きを命じられました。真理の言葉が大路や小路で述べ伝えられる時、神の霊が人々の心に働いていることが現われてきます。真理を持ち、生命の言葉を持つ人々が、もっていない人々を啓発するために、もっと働いたならば、どんなによいことでしょう。サマリヤの女の招きによって、キリストのところに集まって来たサマリヤ人たちをご覧になって、弟子たちに、畑はいろづいて収穫をまっていると言われました。
「あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ4か月あると言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている」と主は言われました。キリストは二日間、サマリヤ人のところにおられました。それは彼らが真理を聞くことに、うえていたからでした。なんという忙しい日々であったことでしょう。その二日の働きの結果、「多くの人々がイエスの言葉を聞いて信じました」「自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救い主であることがわかった」と彼らはあかししました。
神の民であると言っている者のうち、だれがこの神聖な働きに着手し、知識のないため滅びようとしている魂のために働くでしょうか。この世に警告しなければなりません。献身と、忠実で疲れを知らぬ努力を必要とする多くの場所が私に示されました。キリストは大都布の群衆の心と思いを開いておられます。その人々は神の言葉の真理を必要としています。もし私たちがキリストのみそばに近づき、そしてこれらの人々に近づこうとするときに、よい感化を与えることができます。私たちは目を覚まし、キリストと同じ思いを持つ経験にはいり、われわれの回りの人々に同情する必要があります。大都市も小都市も、近くても、遠くても、働きかけ、そしてそれは、かしこく働きがなされねばなりません。退いてはなりません。もし、私たちが聖霊とひとつになって働くなら、主は人々の心に正しい感動を与えられます。
兄弟方、私はあなたがたを勇気づける言葉を持っています。神から大きなものをいただける信仰と希望をもって前進せねばなりません。敵は真理を前進させようとする努力を、あらゆる方法でさまたげようとします。しかし、主の力によって、あなたがたは成功します。失望の言葉を語ってはなりません。共労者を力づけ、支持する言葉だけを語るべきです。

個人的な言葉

私は伝道地の大切な働きに携りたいと自分では切に願っています。そして、私の年令では、自分の体力であえてすることが無理だと信じなかったら、確かに私はもっと公衆伝道に携っていたことでしょう。私には、第三天使の使命が宣べ伝えられて以来、今日までを通して、その時、その時に、私に与えられた光を、教会や世の中に伝える働きがあります。私の心は、真理をだれにでも手のとどく所におきたいという強い願いに満ちています。そして私は、いまも出版物を準備しています。しかし私は、私が書けなくなるようなことにならないように、もっと注意深く行動しなければなりません。私がこれからどのぐらい生きられるかを知りません。しかし、私は自分の健康のことを、それほど心配してはいません。
1909年の世界総会に続いて私は数週間、天幕集会や他の一般の集会に出席し、またニュー・イングランド、中央部、中西部の諸州にあるいろいろな伝道機関を訪ねました。
カリフォルニアの家に帰ると、私は印刷物の準備のために新しい仕事につきました。過去四年間、私はあまり多くの手紙を書きませんでした。私は自分の力のほとんどを、大切な書物の編集にあててきたのです。
私は時々、集会に出席したり、カリフォルニアの伝道諸機関を訪ねたりしましたが、この前の世界総会以来、私の時間の大部分は、セント・ヘレナに近い「エルムスへーヴン」の私の田舎家で、原稿を書くことに費やしてきました。
主は、私が本を少しでも長く書けるように、私の命をのばしていてくださることを感謝しています。ああ、私にしなければならないと思ったすべてをなすだけの力があったら、どんなによいでしょう。主の民が、非常に必要としている真理を、はっきりと、そしてよくわかるように示すことのできるために、主が私に知恵を与えてくださるように祈っています。私は、神がこれをさせてくださることがおできになると、信じるように励まされています。
私の働き全般に対する興味は、いまも以前と同じように深く、そして現代の真理の働きが世界のすべての場所に着々と進展することを切に望んでいます。しかし、私の本が私の監督を必要とする間は、あまり多くの公共的な働きに携わるべきではないということを知っています。私には、神の摂理の下にオーストラリアで知り合った人々や、アメリカに帰ってから知りあった人たちなど、数人の最もよい働き人があります。私はこのよい助け手を神に感識しています。私たちは皆非常に忙しく出版物の準備に最善を尽くしています。私は今、私たちの信仰の理由を知らないでいる人々を照らすために、真理の光が、いたるところに行きわたることを望んでいます。私は時々視力にわずらわされています。いまでも、いくらかの痛みに苦しんでいます。しかし、神が私の視力を与えてくださっていることを感謝しています。私の年齢では、もし両目が使えなくなっていたとしても、別に不思議なこととは思えないでしょう。
私は主のみ霊の気高い支えに対して、また主からたえまなく注がれる慰めと恵みのゆえに、そして、また主がその民を励まし、助けるために力と機会とを与えていてくださることについて、口に言い表わし得ない感謝をおぼえます。主が私の命をながらえさせてくださる限り、私は主のみ旨を行ない、主のみ名の栄光を求めて主に忠誠をつくします。私が主をもっと知ることができ、主のみ心をもっと完全に行なうことができるよう、主が私の信仰を高めてくださるように。主は慈悲深い方です。そして大いにほめたたえらるべきお方です。

年長の働き人の影響力

私は主への奉仕を続けて白髪となられた十字架の老戦士がたが、信仰のまだ若い人々に、主が過去に私たちに与えられた使命は、地上歴史の今の段階で非常に重要であることを理解させるために、最後まであかしを続けられるように大いに望んでいます。私たちの過去の経験は、その力を少しも失っていません。
すべての人々は、先駆者を失望させないように気をつけましょう。また、その方々ができる分野がないと感じることがないように注意しましょう。この方々は、主の働きに依然として有力な影響を及ぼすことができるかもしれないのです。年をめされた牧師のあかしは、いつも教会の助けとなり祝福となります。神は老練で忠実な御自分の旗手たちが、その武具を脱ぐときがくるまで、彼らを夜も昼も見守られることでしょう。自分がまどろむことも眠ることもないお方の保護のもとにあり、疲れを知らぬ番兵によって見守られていることを彼らに確信させましょう。このことを知り、また自分がキリストのうちにいることを認めるとき、彼らは神の御摂理に信頼して安んずることができるのです。

「終わりまで」

私達が現在している働きが、他の人々の心と精神と魂に深い印象を及ぼすようにと私は熱心に祈るものです。困難な問題がますます多くなってくるでしょう。しかし私達は神を信じる者としてお互いに励まし合おうではありませんか。標準を下げないで、私達の信仰の導き手であり、またその完成者である方を仰ぎ見つつ、高い標準を維持しようではありませんか。私は夜眠れないとき、祈りによって私の心を神に注ぎ出します。すると神は、国内や遠い国外で働いているしもべたちと共にいてくださるという保証を私に与えて力づけてくだきいます。イスラエルの神が今なお御自分の民を導いておられ、今後も終わりまでこの民と共にいてくださることを実感するとき、私は励まされ祝福されるのです。

いっそう能率的に推進する

私は教役者である兄弟たちにあなたがたのくちびるから語り出されるメッセージが神の御霊の力で満たされたものとなるようにしなさいと告げるように命じられています。私たちが聖霊の特別なお導きを必要とする時があるとすれば、それは今です。私たちは完全な献身をしなければなりません。今こそ私たちは自分自身の生活と奉仕をとおして世に神の力を表わさなければならないのです。
主は第三天使のメッセージを宣伝する働きがいっそう能率的に進められることを望んでおられます。主は御自分の民に勝利を与えるために、すべての時代にわたって働いてこられましたが、この時代においても、御自分の教会に対するみ旨を勝利のうちに成し遂げようと切望しておられるのです。神は信ずる聖徒たちが、一致して前進し、ますます力が増し加わり、神の働きが真理であり正義であることをいっそう深く確信するようにと命じておられるのです。
神は私たちと共におられて新しい事態に対処できる力を与えてくださることを覚え、神の御言葉の原則に岩のように堅く立たねばなりません。主の御名によって力から力へと前進することができるように、私たちの生活の中に常に義の原則を維持しましょう。私たちの教会が生まれた時から、今日に至るまで神の御霊の教えと承認によって実証されてきた信仰を、神聖なものとして保たねばなりません。主が戒めを守る御自分の民を通して推進してこられた働きを、私たちは非常に尊ばねばなりません。この働きは、時代が進むにつれ主の恵みの力によって、ますます力強く効果的に進展するのです。敵は神の民の目を曇らせ、その能力を弱めようと狙っています。しかし民が神の御霊のお導きに従って働くならば、神は、長い間荒野となっているところを開拓する機会を彼らの前に開いてくださるでしょう。忠実な者たちに最後の勝利の証印を押すために、主が力と大いなる栄光をもって天から下って来られるときまで、彼らの働きは絶えず成長を遂げてゆくのです。

最後の勝利が約束されている

私たちが取り組もうとしている働きは、人間のもてるだけの力をフルに発揮しなければなりません。強い信仰を働かせ絶えず目をさましていなければなりません。非常な失望を味わうことがこれからたびたびあることでしょう。あまりにも大きな働きであるため私たちは圧倒されてしまいます。けれども神のお助けによって、神のしもべたちは最後には勝利するのです。兄弟方、あなたがたの前途にある苦しい経験のゆえに、「落胆しないで」ください。イエスはあなたがたと共に知られるのです。イエスは御自身の聖霊によってあなたがたに先立って行かれ、道を備えてくださるのです。そして彼はどんな危急の際にもあなたがたの助け手となってくださいます。
「こういうわけで、わたしはひざをかがめて、天上にあり地上にあって『父』と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているすべてのもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。
どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アーメン。」

世界総会公報・1913年5月27日、164〜165ページ

1915年・ホワイト夫人確信の言葉を残す

教会に対するエレン・G・ホワイトの最後の使信より抜粋。彼女の最後の病床にて口述されたもの。

私は長くは生きられないと思います。私の働きはほとんど終わりました。私たちの民に私が「あかし」すべきことはもうないと思います。堅固な精神をもった私たちの同胞は、いかにしてこの働きを建設し高揚すべきかを知っています。しかし彼らは心に神の愛を抱いて神についていっそう深く深く探求する必要があります。

レビュー・アンド・ヘラルド・1915年4月15日 
キリスト教教育の基礎・547、548ページに再録。